キメラガール・アンセム

劇場について

ここ数回の上演を日暮里d-倉庫でおこなってきたジエン社を観に行くということで、僕は間違って日暮里へ行ってしまわないよう細心の注意を払う必要があった。だけど、それはなにも回数だけの問題ではなく、ジエン社をずっと見てきた一人として、ジエン社とBASE THEATERの空間とがイメージ上で結びついてくれなかったから。席数とか規模の問題ではなく、単に「さほど天井高のない劇場」とジエン社の作風が結びつかなかったのだった。

といっても別に、ジエン社は空間を縦方向に埋め尽くす演出なんかはしないし、したこともない(と記憶している)。あの作品を演出するにあたって、天井の低さは物理的には何の制約にもならない。でも「物理的には」問題なくても「空間的には」問題がある、と僕は感じていた。あの「なにもない虚空」は僕にとって、ジエン社の隠し味みたいなものだったから。基本的に人が動いていれば観客の視線は舞台上(床上2m以内)に集中するのだけど、ふと顔をあげた時に舞台上(人物の上空)に広がる「だだっ広い、なにもない虚空」に圧倒される。こんなにも「なにかをしているように見えた」人たちの上にぽっかりと空いた穴のような「なにもなさ」。それが今までのジエン社の、クライマックスの感触だった。BASE THEATERにはそれがなかった。人の姿を全身を捉えようとすると否応なしに天井や灯体が視界に入る。ああ、ここは劇場なんだ、これは劇なんだ、と自覚させられる。ただ、それに対応するように劇中の台詞も少しずつ「演劇調」に移り変わっていっている気がした。といっても地球の自転や雲の流れのような、意識しなければわからないくらいゆっくりとした変化だけど。

将棋について

父が囲碁好きなので実家のテレビで対局中継なんかが流れてるのを食卓囲みながら見ることはあったのだけど、そのころから「囲碁や将棋をする人」をどう観察していいかわからなかった。指先を見ればいいのか表情を見ればいいのか、それとも木片を見ればいいのか。合わせるべき焦点はどこなのか。一手打つまでの長考の時間に棋士が何を考えているのか、はたまた何も考えていないのか、それは外側からはわからない。あるのはただ、長考の末に打たれた一手という結果だけ。

劇中でも言ってたけど、将棋のルールも面白味もわからない人にしてみれば、たかだか9×9=81通りしかない(各駒の動ける範囲にも制約があるから実際はそれ以下だろう)マス目の上の木片を難しい顔しながら前へやったり後ろへやったりしてるだけなんだけど、すごく強引に言ってしまえば演劇だって人が動いてるだけだし、世界だって人が生きたり死んだりしているだけだ。でもそう言われたら僕らは「人と木片を一緒にするな」とか「人はいろいろ考えて動いてるんだよ、見りゃわかるだろ」とか反論するだろう。だけど棋士たちに言わせれば木片だって「いろいろ考えて動いてるんだよ、見りゃわかるだろ」なんだろう。

口下手な人が長い沈黙の末に「あの、」とだけ発したとして、そこから相手の思考をたどることは不可能ではないはず。というか、たどろうとするだろう。たどらなければ会話が続かないから。たどるのが不可能でも「どうしました?」って聞き返すことはできる。聞き返された人は次の言葉を探す。だとしたら「あの、」と「先手3四歩」のあいだに、「どうしました?」と「後手6ニ香」のあいだには本質的な差なんてないはずだ。

まるで故人を偲ぶように棋譜(の再現)を囲むシーンが印象的だった。

キメラについて

キメラというとどうしても世代的には「一度行ったことのある場所へ瞬時に戻れる翼の生えたアイツ」を連想しがちだけど、本来はライオンの頭と山羊の胴体に毒蛇の尻尾を持つ伝説上の生物、転じて、同一個体内に異なった遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態を指す生物学用語(Wikipediaより)。そしてたぶん、この作品ではさらに転じて、互いに相容れないはずの複数の選択要素がぐちゃぐちゃに入り混じった状態を指す造語? の、ガール。の、アンセム。たとえば過去と未来はそれぞれ区別されていて、過去であり未来でもある、みたいな言い回しは言い回しとしてしか存在できず、実際にはそんな状況はありえない。でも舞台上にはそれがあった。そうなっていた。

たとえば一人の役者が「アー君/たとえ/中村さん」と配役表に記されていた場合、たいていの場合その役者が一人三役をやる。一人三役というのは演じ分けるという意味で、「アー君」として振る舞うシーンと「たとえ」として振る舞うシーンはそれぞれ独立している。

と、思うだろう。普通は。

でも実際、この舞台を見ていると、そういう区別はほとんどされない。「アー君」と「たとえ」と「中村さん」は同一人物なのかもしれない。「アー君」というあだ名で呼ばれている「中村たとえ」という名前の人物なのかもしれない。そうじゃなくて三人は全くの別人なのかもしれない。答えは劇中で明かされないどころか、「同一人物であり別人でもある」としか読み解けないような方法で迫ってくる。これは「自分はどこまで自分なのか、他人はどこまで他人なのか」という種類の問いかけ、ではないと思う。そのテーマは「キメラガールアンセム/120日間将棋」が求めるものの外にある。もし、この芝居からそういうテーマ性を感じたんだとしたら、それはあなたが普段からそういうテーマに関心があるということの証明にしかならない。

と、僕は思う。

が、

キメラってそういう状態を指すのだろうし、もしかしたらこれこそがメインテーマなのかもしれない。その答えもまた劇中では明らかにされない。本当のことなんて何ひとつとして提示されない。それをわからないと言って切り捨ててしまう自由も保障されているし、わかろうとしつづけることも、わかったふりをすることも、全部を選ぶことも、この芝居は禁じていない。

キメラなのは人称に限ったことではなく、時間は時間の流れたいように流れるし、今いる場所も君が誰かも言葉尻ひとつで決まるし次の瞬間には否定される。正解のない三択問題みたいなもので、分裂しても分岐はしない。キメラガールたちと一緒になって乱視のように分裂する時系列は、舞台上にある将棋盤のおかげでかろうじて吹っ飛んでいかずに済んでいる。棋譜の時系列だけはまっすぐで逆行も蛇行もしない。ある一手は前の一手がなければ成立しないし、その一手がなければ次の一手にも繋がらない。上演時間90分プラス開場から開演までの30分イコール120分。1分を1日と換算して120日。つまり「120日間将棋」。登場人物たちの心が、意識が、身体が、前に進もうが後ろへ下がろうが、その時間だけは容赦なく前へ進む。

アンセムについて

君と将棋を指す。
ただし一日一手ずつ、23時59分までに1手を指す。
それ以上は手を早めないし、それ以上は手を遅めない。

結局、アー君の、たとえの、中村さんの将棋の相手は誰だったのか。正面側の客席で見ていた僕からは、アー君と、たとえと、中村さんと対峙する4人のキメラガールの目が同時にこっちを見ている膠着状態になった一瞬があって、その瞬間だけアー君は、たとえは、中村さんは自分だった。何かしなければと思った、でも何を?

僕は将棋のルールを知らない。世の中が今どうなっていて、どう動いてるのか正確に知らない。それを考えるには時間が要る。丸一日くらいかけて、それについて熟考する必要がある。観劇してからこの文章を描き上げるのでさえ2日も必要としてしまった。でも考えたいとは思っている。誰なのかもわからない漠然とした「相手」と将棋を指す。ただし一日一手ずつ、23時59分までに1手を指す。それ以上は手を早めないし、それ以上は手を遅めない。日進月歩とかそういう言葉はあまり好きじゃないが、実際そうやって進めていくしかない。ただし逆に言えば、四六時中考えていれば何らかの一手は導き出せるということなのかもしれない。大丈夫、いつかは必ず決着がつく。たいていは投了で終わるらしいが、やれるところまでやってみようと思っている。普通の生活とやらを。

ジエン社から受ける衝撃について今までカミソリだの鈍器だの言ってきたけれど、そもそも今回のジエン社は攻撃なんかしていない。ただ、知らない間にできている傷口の位置を一つずつ指摘してくれるだけだった。

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the end of company ジエン社「キメラガールアンセム/120日間将棋」

2012年11月7日~11日@池袋シアターグリーンBASE THEATER

【脚本・演出】作者本介
【出演】伊神忠聡、岡野康弘(Mrs.fictions)、萱怜子、川田智美、北川未来、清水穂奈美、関亜弓、中田麦平(シンクロ少女)、信國輝彦、藤田早織、目崎剛(たすいち)、山本美緒
【舞台美術】泉真
【舞台監督】鈴木拓 
【照明】南星(Quintet☆MYNYT) 
【音響】田中亮大
【演出助手】吉田麻美、綾門優季(Cui?)
【制作】池田智哉(feblabo)
【宣伝美術】サノアヤコ 

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