茄子にまつわるまちがいさがし

【二〇一三年五月一一日土曜日、一四時三〇分、雨】

先に断っておくと、これは劇評ではないし、たぶん感想ですらない。ましてクレームなんかではない、原作のページを開いて卓上に叩きつけ「ここを勝手に変えたのはどういうわけですか」なんて詰め寄る気もさらさらない。むしろ、奥村さんが念願のオートバイ入手を賭けたペーパーテストに合格した特別な日に自分の食べた昼飯を覚えていなかったように、自分があんなに夢中で読んだこの漫画のディテールを覚えていないこと、もしくは「こねじ版・奥村さんのお茄子」の翻案が自然すぎてすっかりそうだと思い込まされたことへの驚きと、まさにこの話のテーマのひとつでもある「人間の記憶なんて当てにならないものだなあ」という感嘆符を書き留めておくためのメモ、というていで書きはじめてみる。

「奥村さんのお茄子」という作品は、高野文子の作品集『棒がいっぽん』の最後に収録されている。スンナリ読もうと思えばそれなりに面白く読めてしまうくせに、いったん解析し始めると底無し沼のように終わりのない深読みへとずぶずぶ潜り込んでゆくこの漫画作品自体についてああだこうだ言うのは、もう先人たちが語りつくしていると思われるので、ネットに散らばる各種先行文献を参照の上、読みたくなったり、ならなかったりしてほしい。

ともかく「こねじ版・奥村さんのお茄子」が最新版「奥村さんのお茄子」として僕の記憶に上書きされた状態で本を開いてみる。

『棒がいっぽん』137ページ目から、物語は始まる。

・はじまりは奥村さんの家からではない
・奥村さんはカップ麺を食べていない

読み返しはじめた瞬間からいきなり衝撃の2連発。あまりに違和感なく上書きされていた記憶に笑ってしまう。オートバイの走る公道を挟んだ向こう側の地点から、ゆっくりカメラがズームインしてくると、そこはお食事処である。わずかに段差のついた「お座敷席」で定食(描き込まれていないのでこの時の副菜は不明)をひと口、箸の上にのせて運ぶ奥村さん。遠久田は、奥村さんと背中合わせの席に座っており、背後から話しかけてくる。

「あの、ちょっとおたずねしたいんですが、一九六八年六月六日木曜日、お昼、何めしあがりました?」

原作の奥村さんが普通のごはんを食べていたことが、どうしてそこまで衝撃的だったかというと、こねじ版の奥村さんが食べるカップ麺(のちに遠久田との長話に気をとられた結果のびてしまう)は、後々の展開のために仕掛けられた親切な伏線だったからだ。それはもう、この先を知っている人間からすれば定石と言っていいくらい違和感なく登場するアイテムで、逆に原作に向かって「どうして序盤のうちに麺類を出しておかなかったの!?」と言ってしまいそうになる。

さらに、遠久田は背中合わせの状態から奥村さんに話しかけておきながら振り向かれることを嫌い、奥村さんに読んでいる新聞紙を渡すよう要求する。このシーンは芝居中にもあった。ただし、原作で遠久田が新聞紙を欲しがった理由は、それで自分の足元を隠すためだ。遠久田の足は図鑑で見た人間の資料をもとに成型されているため、靴を脱ぎ履きできない構造になっている。だから新聞でそっと隠す。こねじ版の遠久田は雨で濡れた足を拭いたあと、その足を新聞紙でくるみ、土足が土足にならないようにして慎重に室内へ上がり込む。どちらにしろ遠久田、人体については詳しくない割にきちんとマナーがなっていて微笑ましい。

【五分休憩】

・奥村さんの息子はずっと前に生まれている

これも読み返してみて意外だった点。二人芝居にする必然性のためにくっつけられた設定かといえばそうでもない。原作では奥村さんの息子は今年から大学生で、一人暮らしのアパートを探しに奥さんと一緒に出かけている。こねじ版では、今まさに息子を出産するために入院中なのである。こんなに大きな違いがあるのに、どちらにも家族が登場しない、という共通項しか覚えていなかった。

このあたりから、こねじ版は原作とはゆるやかに分離しはじめる。漫画でしか描けない(漫画で描く必要がある)ものを作った高野文子に敬意を表しながら、演劇でしか描けない(演劇でやる必要がある)ものをじんわり滲ませていく。

・奥村さんが毒茄子を食べたのは25年前

気付かない人は気付かないままかもしれない、その程度の小さなひずみ。原作で奥村さんは毒茄子を25年前に食べたことになっており、こねじ版では15年前となっているが、毒茄子に仕掛けられたタイマーの時限はどちらも変わらず30年である。これも別に奥村さんを演じる役者の見た目年齢に配慮して…とかではないと思う(それを言ったら原作の奥村さんなんて到底44歳に見えない)。10年の微妙な差で生まれるのは、奥村さんが調査員の誰かに「あの時お茄子を食べたかどうか」をもう一度尋ねられる未来までの時間の違い。5年と15年という単なる「余命」の長さの差ではない。遠久田は先輩の疑いが晴れたお祝いにと自分で持参した毒茄子を奥村さんに差し出すも、けっきょく奥村さんが箸をつける寸前で妨害する。「30年タイマーの毒茄子を15年前に食べそこねて、その味が思い出せない」奥村さんにとって、15年後に訪れるであろう未来も、そのとき思い出そうとする過去もきっと、そっくりそのまま今と同じ状況なのだ。

・うどんをのばすシーン以降が省略されている
・奥村さんはウルイを食べていない

ここまでずっと「原作」と書いてきたけれど、じつはこの芝居のパンフレットには「原案:高野文子」と書かれている。原作と原案の正確な違いはよく知らない。ただ、ここから先は「作:佐々木なふみ(こねじ)」の本領発揮であり、ただ好きな漫画を演劇でやってみました、で終わらせていない転換点でもある。

読んでいない人のために説明すると、「うどんをのばすシーン」というのは、うどん型ビデオテープ3cmぶんの時間をフライ返しでズームアップした時(聞きたいことはたくさんあるだろうが一旦スルーしてほしい)、奥村さんさえ映っていれば用をなすその映像にたまたま写り込んだ小学生をきっかけにして、一九六八年六月六日木曜日を芋づる式に手繰り寄せようとするシーンである。「未来から過去へタイムスリップした時は石ころ一つ動かしてはならない。なぜならそれによって未来が書き換わってしまうから」というのはSFに限らず時間を扱うフィクションの大前提だけど、遠久田は奥村さん以外のすべての要素を石ころ一つまで寸分違わず同じ場所に配置し、複製不可能な一枚絵を強引に複製してしまうことで奥村さんが茄子を食べた瞬間を捏造してしまう。

こねじ版ではこのクライマックスがばっさりカットされ、かわりにウルイのエピソードが入ってくる。奥村さんは妻の手料理で出されたウルイを初めて食べたつもりで味をほめるが、今までにも何度かウルイは家庭内で振る舞われていた。この、どこの夫婦間でも一度はありそうな他愛もない諍いを「記憶」にまつわる話としてだけ見れば、遠久田や先輩にとって死活問題であるはずの「奥村さんに茄子を食べさせたかどうか」が奥村さん本人によって「とるにたらないこと」として忘れ去られていたのと一致する。そして、最初のころこそ不審な闖入者だった遠久田は、奥村さんの妻と同じ立場でその気持ちを代弁し、和解し、食卓を囲んで缶ビールで乾杯して、この二人芝居は終わる。

ラストシーンの舞台写真だけ差し出されたら、奥村さんと遠久田は夫婦に見えるかもしれない。けれど、それまでの45分間の芝居はこの「とるにたらない日常の光景」が描きあがるまでの絵描き歌だったのだと思う。葉っぱだのカエルだのアヒルだの、おたがい無関係な要素をつないでいったらいつの間にか「かわいいコックさん」になっていたように、全部の瞬間は「ほとんど覚えてないような、あの茄子のその後の話」としてつながっている。原作から大きく離れた展開をしておきながら、丁寧すぎるほど丁寧に原作と向き合った傑作だったと思うので、15年後誰かに尋ねられても答えられるよう、ここに書き留めておこうと思う。

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こねじ「奥村さんのお茄子」

2013年5月9日~12日@寺子屋大吉カフェ

【原案】高野文子「奥村さんのお茄子」
【脚本・演出】佐々木なふみ
【出演】内山奈々(チャリT企画)、菅野貴夫(時間堂)、佐々木なふみ(こねじ)、寺部智英(拙者ムニエル)、浜野隆之(下井草演劇研究舎)、両角葉


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