10月の2本
みさくぼ「碌な夜がいねえ」
10月15日19:30 王子小劇場
ぜんぜん具体的なこと書いてない気もするけどこのまま公開する。
一昨年の夏。在宅ワークと出不精のコンボが華麗に決まって自宅にこもりっきりの生活をしていた時期、真夜中にとつぜん室内にいること自体が我慢ならない気持ちになって、近隣の、徒歩約20分先にある自然公園までわざわざ歩いていき、全身もれなく蚊に刺されながら雑木林の奥で偶然見つけたセミの羽化する一部始終をただ見つめていたことがある。吸血鬼だの狼男だのの実在を信じてるわけじゃないけど、火のないところに煙は立たぬというか、夜というものがヒトの理性をほんの少し歪めてしまう感覚はよくわかる。
みさくぼの演劇は夜だった。見に行ったのが夜の回だとか、夜をテーマにしているとか、そういう次元じゃないくらいに夜だった。夜そのものが演劇の姿に化けて出た、と言ってもいいかもしれない。
夜は暗い。夜は人がいない。でも街灯もコンビニもある夜は明るくて人の気配がする。この時点でなんか変だ、矛盾している。空間的な条件は同じはずなのに、夜の路上で出した声は昼よりもずっと大きく響く。夜は歩幅がデカくなる。夜は独り言が多くなる。わざわざ夜道をあてもなく歩くことはそれ自体なにかいけないことのような、ぞくぞくと背徳的な気分にもなる。
夜はみんな少しだけ変になる。まともなままでおかしくなる。ひそひそ声も絶叫も等しく呑み込んでくれそうな闇のあちこちにスポットライトのように街灯が立っていて、それに照らし出された人々はみな舞台上へと引っ張り出された役者のようで、不自然なくらい饒舌になる。昼間には言わないようなこと、言えないようなこと、言うつもりじゃなかったはずのことを、ぽつりぽつりと語ってしまう。
夜中の三時に考えたことなんか大抵碌なもんじゃないけど、夜中の三時にふと漏れ出た本音を無条件に信じられるのはどうしてなんだろう。思考回路が止まっているからか、それとも止まっているのは時間のほうか。普段は眠っていて意識がないから「本来存在していない」はずの時間に外を歩いていることの不可思議が見せる幻なのか。そんな虚数の時間を巡るにふさわしく、全員反時計回りでぐるぐると夜道を進むのがとてもよかった。
not in service「JPN」
10月16日17:00 ウエストエンドスタジオ
not in serviceの感想を書こうとするといつも僕は語りすぎてしまうきらいがあるのだけど、それはnot in serviceの作品が迷路のように入り組んだ巨大建造物の形をしているせいだ。
王子の団地という実在するロケーションと、それが実際に上演されている新井薬師前の物理的/虚構的距離。開演して体感で約30分、とっくに物語は始まっていたと信じて疑わない頃に差し込まれるタイトルロールの映像。本編に突入したと思いきや現実なのか回想なのか妄想なのか曖昧なままブツ切りで進む1つ数分程度の断章。ひどく爛々としているか、さもなくば焦点が定まっていない眼をした演技体の人びと。それらの中心にいて、主人公にもかかわらず何者からの感情移入をも撥ねつけるように超然と立つ梨屋日子の存在。どこまで深読みしてもまだ先があるようでいて、実際のところ深さの感触が全く掴めない。やっぱり今回も案の定、とんでもない数のサブテキストが隠されていた。
ここで言及されている既存作品のほとんどを僕は知らない。名前だけは知っているけれど通過していないものばかりがズラッと並んでいる。そして記事内でも書かれているとおり、これらを連想させる作品をつくった村岡さん自身、その全部を通過してきたわけではないという。
ヒット作というやつは多くの場合、その時代を覆う雰囲気や質感と共鳴するものだから、その逆もあって当然なのだろう。つまり、その時代を覆う雰囲気や質感を敏感にキャッチした人が作るものは、おのずとヒット作に共通する要素を併せ持つと。
カルチャーには貴賤もなければメインもサブも本来はなくて、互いに異なる生活圏を持った人たちが、それぞれ手の届く範囲に何を携えて生きているかの差でしかないのだと思う。そして村岡さんは演劇だけでなく映画・音楽・アニメ・ゲーム・神話伝承など広範囲にわたって食指を伸ばし、そこから自作のエッセンスをつかみ取ってきている。ありったけのカルチャーを吸収して生み出された作品がカルチャーでないはずはなく、それを目撃した人たちは自分の手元にある別のカルチャーを参照して語りたい欲望へと駆り立てられる。そうやってnot in serviceの世界は再帰的に増築され、また次の作品へと繋がっていくのだろう。