駄々 vs エンドロール
先に重大なネタバレをしてしまうと、この作品に全長50メートルガールは登場しない。その巨大な身体をどう演劇で表現するかとか、なぜ巨大になってしまうのかとか、そういったことも一切語られないし視野に入ってすら来ない。それでいて、この作品はまぎれもなく全長50メートルガールの苦悩を描いたものになっている。
舞台となるのはどこか片田舎の町にある寂れたファミレス。そこの禁煙席に集まる地元の同級生女子5人組。彼女たちは本当は喫煙席に行きたかったが、喫煙席には「かっぱのおっさん」という疎ましい先客がおり、それを避けるために仕方なく禁煙席に座っている。毎晩そのファミレスで朝まで語り明かしているという彼女たちの会話はどこまでも中身がなく、薄っぺらく、平凡で、にもかかわらず恐ろしいほどグルーヴィーでもある。そりゃ毎晩同じ面子で集まって話してりゃ話題の種も尽きるし互いに興味もなくなるだろう。しかしその倦怠感と引き換えに彼女たちは互いの話のテンポを掌握し、阿吽の呼吸と反射神経だけで会話する術を身につけ、考える時間というものをほぼ挟まない、途切れないガールズトークのラリーを繰り広げている。
そんな中身のない話の端々で断片的に語られる噂。どうやらその世界にはドラゴンがいて、定期的に誰かが攫われていくのだという。今年の生け贄に選ばれたのはファミレスでバイトする4つ年下のウェイトレスで、彼女はどうやら自分の運命を仕方のない事だと諦めて、攫われる前日だというのにこんなところで働いている。時給700円で。
ところで、現実のわれわれが「死ぬまで生きる」という言い回しをするとき、それは笑っちゃうくらい当たり前のことなのだけど、物語の登場人物はそうとは限らない。死ぬまで生きていられる登場人物なんて、世の中にはほんの数えるほどしかいない。下校のチャイムが鳴ったら家へ帰らなきゃならないように、『蛍の光』が流れ出したら閉店時間には店を追い出されるように、たいていの物語はエンディングテーマが大音量で流れはじめたらそこで終わりを迎えることになっている。そしてたいていの物語は主人公が何らかの重大な決意をする瞬間「まで」を描き、その後のことは観客の解釈に委ねるという大義名分のもと、語られることはない。
ちょうど女友達全員から「あーぽんは恋をしちゃダメなの」と諭され続けていた女の子がウェイトレスの子を救うためにドラゴンを倒そうと決意したとき、GO!GO!7188の『こいのうた』が大音量で流れ出し、店内は、というか物語は、舞台は、客席は、「そろそろ芝居が終わりそう」な「いかにもクライマックスっぽい」気配をみせる。上演時間は最初にアナウンスされた通り65分とわかっているし、体感時間的にも今ちょうどそれくらい。そしてどうやら“あーぽん”は恋をすると巨大化してしまう体質らしい(劇中で明らかにはされないけれど、たぶん全長50メートルになるのだろう)けれど、恋をして巨大化してドラゴンを倒すという「重大な決意」をしたばっかりに、恋をする前に物語が終わってしまうという事態になる。しかも大音量で流れているGO!GO!7188は全然あーぽんの趣味じゃない選曲だったらしく、あーぽんは好きな歌を念仏のように唱えながら往生際悪く物語のなかに居残ろうとする。しかし時の流れは残酷にも、あーぽんを残したままカーテンコールに突入する。
死ぬまで生きられる特権を持った現実のわれわれにはナンセンスにしか映らない出来事だけど、好きでもない歌に見送られて何もしてないうちから途中退場させられるというのはどんな気分だろう。自分たちの出ている芝居のタイトルを知らない(そもそも芝居に出ている自覚もない)他の登場人物(≠俳優)たちは、あーぽんが全長50メートルになれることも知らないからキョトンとするばかりだし、普段から言動のおかしい子だからと相手にしない。でもそんなのってないだろ。そんな運命ってあるかよ。恋くらいさせてやれよ。そう思いながらも、“あーぽん”の突然の暴走に思わず素に戻ったようなリアクションを取る俳優(≠登場人物)たちを見て僕らはフツーに笑ってしまう。そして芝居が終わったことに対して拍手さえしてみせる。何重にもねじれた笑いが巻きすぎたゴムぜんまいのように戻っていくのを感じながら。
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踊れ場「全長50メートルガール」
2013年5月21日~26日@東中野RAFT
【脚本・演出】池亀三太
【出演】あやか、井上千裕、背能じゅん、山田麻子、キャサリン、中園紗緒里、池亀三太
【演出助手】松岡千明