いつまでも私たちきっと「私たち」の事きっと違う風にしかきっと見られないことについて

3331 Arts Chiyodaには初めて来た。そこは以前学校だった場所で、劇場であるB104は以前きっと教室だった場所で、そんな場所で、高校演劇のフォーマットに則って作られた、高校生が登場する演劇を見る。開場して少し経ってから入った客席は半分くらい埋まっていて、お客さん同士のおしゃべりする声が、うるさ過ぎず静か過ぎず心地好く雑然とざわめいていた。それは休み時間の終わり近くの、先生が入ってきて次の授業を始めるのを待っている教室のようでもあって、けれども本物の教室のように机や椅子が整然と並べられてはおらず、だだっ広い教室の真ん中にあいた大きな空間を囲むように座って待つ客席は、どちらかといえば休み時間よりも授業の一環でなんらかの催し物を見せられるためにここへ集まった生徒たちのような気分だった。そして実際、僕たちは「なんらかの催し物」を見るためにここへ集まっていたし、そわそわするのも無理はなかった。

今回の作品はロロの「いつだって誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」シリーズのスピンオフ作品、というか、二次創作だという。実はさまざまなタイミングが合わなくてロロ版の「いつ高」シリーズは両方とも見られていないのだけど、それでもきっと何の負い目もなく楽しめるはずと信じてここへ来た。

そもそも僕は高校演劇という文化の中を通過していない。演劇に地区大会があることも、高校演劇という概念それ自体も、演劇を本格的にやり始めてしばらく経ってから知った。進学校で、しかも男子校だったせいも多少はあるのかもしれないが、覚えているかぎり母校に演劇部は存在しなかった。そして僕は高校を卒業するまで演劇には全く興味を持っていなかった。

さて、こんなに大量の前置きを用意しておかなければ僕は満足に語り始めることもできないのだけど、それは、とりたてて理由もなくその場にいることがどうしてもできない自分の性質のせいでもある。理由がなければ、理由を尋ねられたときに黙るしかなくなってしまう。だって、たいした理由もなく何かをすることは、きちんと理由があって何かをすることに比べて、世間ではずいぶんと分が悪い行為だと思われている(と、呪いのように僕が信じ込んでしまっている)から。

ジエン社版「いつ高」の生徒たちもまた、理由がなければ誰かに話しかけることさえ満足に出来ない。生徒のひとり・フィリフヨン華は「この学校の生徒だから」という理由によって、かろうじてその場所に立っていることはできても、その中で理由もなく友達に話しかけることが、どうしてもできない。そしてそれは、理由なんてなくても一緒にいられるのが友達だという、いかにも美しげな常套句に真っ向からはじき返されて、彼女は友達に近づくことさえできない。

5限のあいだ居眠りをしてしまった茉莉は、放課後になって教室へ入ってきた楽に話しかけられるがまま、理由もなくいくつかの会話を交わすが「なんか今日お前たくさんはなしかけてくるよね」という楽の唐突な指摘によって黙らされてしまう。

海荷は学校を休んでいて、この教室には存在していない。存在していないから、彼女だけが理由もなくこの教室内を堂々とうろつくことができる。その海荷でさえ、一人になったとたん「やっぱ教室は一人でいるに限るね」とうそぶく。

詩宮という女の子が教室や廊下を走っている。詩宮は合唱祭が中止になるのを阻止すべく各クラスからピアノを弾ける生徒を捜し出そうとしている。詩宮は制服の上に赤いベストを着て、ベレー帽をかぶり、はきはきとしゃべる。生徒総会の質疑に手を挙げて自分の意見を言うこともできる詩宮は、クラスの中で確固たる個性を確立していて、学校の中に居場所が保証された存在のようにみえるし、そういう点ではヨン華たちとまったく違ってもみえる。ところが詩宮は「クラス替えの自己紹介で特に理由なく笑われる」ことや「バスケ部の男子と廊下ですれ違うと後方で笑いが起きる」ことを自覚しており(これが人気者ゆえに起こる種類の笑いでないことは、ヨン華の反応でわかる)、すれ違いざまの笑い声を聞かずにすむようにダッシュで廊下を走るようになったのだという。そして続けざまにこう言うのだ、「がっかりしただろ。理由があって。ウタミヤに理由があるなんて」と。詩宮の底抜けな明るさや唐突さは、ロロの作風にもジエン社の作風にも馴染む種類のものだけれど、理由なくそうしていられる風を装って、違う風に思われることで逆説的に傷つくことを回避する詩宮のせっぱつまった処世術はジエン社ならではのものだったように思える。

わたしのかんがえていること、もうわかろうとしなくていいよ。

これは劇中でヨン華が発する台詞だ。

映画の話ばかりする楽には、撮りたい映画があるという。『boyhood』という映画があって、6歳から18歳まで、被写体のまわりを、ただ12年の歳月が流れる映画。勝手に過ぎる時間の中で、ウソをつく、ドキュメンタリーじゃない映画。それは演劇となにが違うのだろう。というようなことを、たしか見ているときは思った。

客席と舞台。こんなに近い、ほとんど同じ場所にいて、こことそことは決定的に違う。時間は勝手に過ぎていく。登場人物は勝手におしゃべりして、それを見つめることしかできない。目の前にいるのに、映画でも撮っているようにまなざすことしかできない。見ているものは、お話じゃない。お話は目に見えない。人物でもない。演じている人間がそこにいるだけで、茉莉も楽も海荷も朝もヨン華も詩宮も、ほんとうはそこにはいない。だから、こうやって見ているのは時間なのだと思う。時間だけが、動き続けている。誰もいない教室の中で。

ロロの「いつ高」シリーズの台本には、まず冒頭に「ファンタジーでなくてはならない」という力強いト書きがあるらしい。そして、ジエン社はそこに「ファンタジーを信じなければならない」と書き足したらしい。ファンタジーとは幻想のことだ。幻想とはウソっぱちのことだ。俳優たちが演じている「高校生」なんて幻想だ。だから、どんなふうに演じたって「高校生活」なんて幻想だ。本当のことなんて誰もわからないし、本当のことなんて誰にもわかってもらえないし、いつまでも私たちきっと違う風にきっと思われているかもしれないし、いつまでも私たちきっと違う風にきっと思っているかもしれないし、いつだって私たち間違って覚えたことを間違ったまま忘れていく。だからこの物語はファンタジーでなければならないし、ファンタジーを信じなければならなかったのかもしれない。

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the end of company ジエン社「いつまでも私たちきっと違う風にきっと思われていることについて」

2016年7月20日~25日@3331 Arts Chiyoda B104

【脚本・演出】山本健介
【出演】伊神忠聡、児玉磨利、佐竹奈々、高橋ルネ、松本芽生、本山歩
【音響協力】田中亮大
【照明協力】みなみあかり(ACoRD)
【衣装】正金彩、原田つむぎ
【宣伝美術】サノアヤコ
【演出助手】瀧川陸
【総務】吉田麻美
【制作】elegirl

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