4月の3本

かるがも団地「なんとなく幸せだった2022」

4月2日18:00 北とぴあ・カナリアホール

まだ初演からそれほど長い年月を隔てたわけではないのに、世の中はかくも無残なほど様変わりしていて、その変化をまるごと背負って書き直された再演版はタイトルから受ける印象まで含めてなにもかもが違ってみえる。

とはいえそこは信頼と実績のかるがも団地、ただの能天気じゃないかわり深刻にもなりすぎない完璧なタイミングで差し水のように軽快な笑いを挟んでくれる。かるがも団地の、時に他者の心の懐深くまで潜り込む作品でありながらも、ずっとうっすらふざけ続けていてくれるという点を僕はとても信頼している。だって「ふざける余裕がある」ってことは「まだどん底じゃない」ってことだから。2つしかない出ハケ口から乱打される情報量そのものみたいな笑いに口角緩めている間に、するりと懐へ入り込んできて「ない古傷」を優しく優しくえぐってくれる。

この作品の軸であり主砲となっているものが音楽(カラオケ)だってことは疑いようもなくて、「音楽には魔法がかかっている」なんてこともよく言われるけれど、音楽にかかった魔法をそのまま借りてくるのではなく、音楽に潜んでいる魔法を最大威力で発動させるシチュエーションが舞台上に再現されているという技巧があってこその輝きだった。

「なんとなく幸せだった」過去が終わって、だったら今は幸せじゃないのか?と問うのはきっと簡単なんだけど、終わったのは「幸せ」じゃなくて「なんとなく」のほうなんだろうな。これからはたぶん、より具体的な幸せに自分から振り回されに行くターン。

カミグセの思案「"待つ"わたしたちのアッサンブラージュ」

4月10日16:00 祖師ヶ谷大蔵Cafe MURIWUI

60分のアコースティックミニライブを見たような感覚だった。2年前までとは違って無心にフィクションに耽溺できない人も少なくないであろう中、かなり理想に近い上演形態だったんじゃなかろうか。

短編と短編の間に短いMCを挟むことも、俳優と作家によるフリートーク的な(戯)曲紹介があることも、そういえば誰が禁じたわけでもないのになんとなく「演劇でそんなことしちゃダメ」の暗黙のカテゴリーに入れてしまっている。あ、なんだ、こういうの全然やってよかったんだ。って率直に思わせてくれたことが功績として(功績ってどの目線から言ってんだという話だけども)一番大きくて、それは「好きなひとたちに会う口実がほしくて演劇のようなものをつくった」とする(カッコ付きの劇作家などではなく)つくにさん個人の思いとも見事に合致するフォーマットだった。

それにしても太宰治のテキストが2022年現在の「わたしたち」をあんなにも正確に言い当てていたとは。

中野坂上デーモンズ「安心して狂いなさい」

4月23日13:00 北とぴあ・ペガサスホール

やや下手側(舞台に向かって左)寄りの席に座ったので、あの装置が最初は巨大な送風機に見え、なるほど舞台上のすべてを圧倒的な風速でなぎ倒すつもりなのか、あるいは劇場の換気を徹底するあまりこうなってしまったのか、などと考えていたら違った。
送風機(だと思い込んでいたもの)から人が飛び出してきたり、人が飛び込んで消えていったりした。舞台上には他にも、見たこともないような出ハケ口が計4か所あり、聞いたこともないような手段で人が次々と出入りし、全体としては終始ライフゲームを眺めているような感覚があった。

メタバース(仮想空間)がテーマ、ということを踏まえれば不思議と納得させられてしまうのだけど、たとえば「タイムラインが騒がしい」などと言うとき、確かに脳内ではこの光景が繰り広げられている。画面上のテキストを左から右へ、上から下へと追っていくのではなく、すべてのツイートが一斉にしゃべり始めて収拾がつかなくなる状態(そもそも「文章」が上から下へ読ませるように書かれているのに対してタイムラインの「配置」は新しいものほど上にくる仕様なので、視線はジグザグに宙を彷徨うか、はたまた時系列に逆らって脈絡のつながらない獣道を一直線に疾走するしかない)。

この異常に言語化するのが難しいシチュエーションを「一切言語化しない」という剛腕で振り抜いていく(しかもそれでわからせる/わからないけど高揚させる)デーモンズには畏怖しかない。

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