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正なる誤読、精なる斜め読み、聖なる深読み。

平泳ぎ本店の公演「若き日の詩人たちの肖像」が5月17日から始まる。野外で1日1ステージ、計3日間、日没の時刻を見計らって開演する。
毎度おなじみ「小道具協力」としてクレジットされてはいるものの、小道具の製作を協力するのではなく小道具を使って後方から協力すると言ったほうが適切なような、そんな特殊なポジションで関わっている。
まあ、けど特殊だなんだ言ったって平泳ぎ本店における自分の立ち回りとしてはそれこそ「毎度おなじみ」のやり方だし、いつも通りやるだけ、ではあるのだけど。

小道具さんが小道具を発注される時代は終わった。これからは稽古を見ながら小道具を勝手に考えて「これあったほうがよくない?」と自主的に持っていく時代だ。
面と向かってそう言われたわけじゃないけれど、実際ここ最近の平泳ぎ本店で僕はそのように振る舞うことになっている。俳優の、俳優による、俳優のための集団。演出家不在の、というより演出家遍在の劇団。個々のアイデアがトップダウン形式ではなく並列分散処理を経てシーンに取り入れられ、昨日と今日とで全く動線が異なるなんてこともザラにある。
それらの突発的な変更に俳優が身ひとつで即時対応できるのと比べれば、小道具はとても鈍足であると言わざるを得ない。僕が材料とスプレー塗料を買って床を養生して塗膜の乾燥を待って(養生が不完全だったせいで家の布団に色移りしてしまい途方に暮れて)などと煩雑な手続きを踏んでいる合間に、そのシーンは小道具を使わずとも成立する形に組み替わっていたりする。置いていかれないよう常に気を張っておかねばならない。反面、なにか小道具を持つことを想定せず作っているシーンに僕がある日突然小道具を思いついて放り込めば俳優の力+小道具の力で鬼に金棒、主宰の松本一歩曰く「一方的にバフがかかった状態」になるらしい。どういうことだよそりゃ、と思わなくもないのだけど、言われて悪い気はしないし悪い取引でもないのでもう少しのあいだ黙っていることにする。

今作「若き日の詩人たちの肖像」は厳密にいえばオリジナル作品ではない。演劇としてはオリジナルだが、元は第二次世界大戦の時期に書かれた小説である。しかも上下巻に分かれ、全部で700〜800ページある。最初から最後まできっちり舞台化しようものなら上演時間は3時間を超えるだろう。それを平泳ぎ本店は60分で上演するという。普通じゃないね。ゾクゾクするね。

やり方はこうだ。

  1. 出演者が、おのおの課題図書のように「若き日の詩人たちの肖像」を読んでくる。

  2. 読んでみて面白かった箇所、興味を持った表現、演じてみたい台詞などを互いに持ち寄り、発表する。

  3. それぞれの好きなシーンを混ぜこぜにしてやってみる。

手順はきわめてシンプルで、出来上がったシーンはダイナミックさに溢れている。800ページの中から合計40ページ分くらいを抽出した上演台本は、もちろんそのままでは何がなんだかよくわからない。でも不思議なことに、繋ぎ合わせると一本の流れが浮かび上がってくる。
そんな芸当が可能な理由としてまず考えられるのは、小説を演劇に移植しようとしているのではなく、読書体験を観劇体験に変換しようとしているからではないかという仮説だ。
どれほど真面目に読んだとしても、長編小説を読み終えた後にそのあらすじを過不足なく伝えようとするとうまくいかない。細部が抜け落ちていたり、インパクトの強いところだけ覚えていて、そこの部分の良さを力説するけど今ひとつ伝わりづらかったり。……というようなことを、その「体験」そのものを、まるまる舞台に乗せようとしているのではないか、この人たちは。

これは稽古中、あるシーンの方向性がなかなか定まらず、前後の脈絡からも浮いてしまっていて、いっそ全カットしたほうがいいんじゃないか? という話になったとき、ある俳優が実際に言った台詞である(一言一句正確なわけではない点はご容赦願いたい)。
「でもさ、俺はこのシーン初めて読んだとき、唐突すぎて"いきなり何言ってんだ!?"って思ったし、それがすごく印象に残ってるから、お客さんにも"いきなり何やってんだ!?"って思わせたいんだよ」
この発言のあと、当該シーンは以前にも増して唐突でわけのわからないものになり、晴れて完成形へと至った。つまり、今回の作品はこうやって取捨選択され、構築されている。

「台本に書かれている内容を表現する」だけが演技の役割ではない。と、言葉でそう言うのは簡単だけれど、それが意味する本質を捉えて実現するのは並大抵のことではない。そのために必要なものは技術と直感、それから思い切りのよさだろう。平泳ぎ本店に集う面々の身体には、その3要素がパンパンに詰まっている。

俳優の身体をフィルターにして濾過された大昔の「小説」は、野外劇場という空間でどんなふうに解凍され、どんな方角から吹く風に乗って客席まで届くのか。あなたの耳に、目に、飛び込んできたその「演劇」を、あなたはどんなふうに読むのだろうか。

もしかしたら難解に見えるかもしれない。でもそれは「解」がある前提に立っているから難しく見えるわけで、そこには「解釈」しかないのだ、ということだけは事前に声を大にして伝えておきたい。解釈はいくらでも間違っていいし、話はよく分かんなかったけど好きなシーンのことだけ覚えて帰ってもいいし、発語された言葉たち(さんざんシャッフルしたり省略したり動き回ったりはしているけど、原著に存在しない言葉は一文字も足していないという)から勝手にメッセージを受け取ってもいい。平泳ぎ本店が保障してくれる自由とは、そういった種類の自由なのだから。


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