奇跡を見逃す世代
1969年、人類が初めて月面に着陸する瞬間は全世界に中継がつなげられ、世界中の人々が同時に画面の奥の未知の世界に熱狂したという。それは日本でも勿論中継され、視聴率は脅威の68・3%を記録したとされる。そして世界40カ国以上では6億人超が視聴したと推定されている。当時の日本では正力松太郎発案による「街頭テレビ」が普及していた。テレビはまだ「一家に一台」の時代ではなく、庶民が購入できるものではなかった。そのため正力は街中に無料で視聴できるテレビを設置し、一つのテレビに多くの視聴者を集めることで、普及台数の少なさによる広告メディアとしての弱さを克服させた。普通に正力松太郎という人は恐ろしすぎる。調べていくとどんどんそのとんでもなさが現れてくるので、怖くて途中で調べるのをやめてしまった。間違いなく彼は良くも悪くも日本の転換点だった。苗字に「正」しい「力」とかやばすぎる。もはや暴力だろ、とか思いつつ話に戻っていくが、スマホが普及した今の時代、例えば火星に人類が着陸する瞬間が中継されたら、アポロ11号の時のようにリアルタイムで世界中の人々はその瞬間の感動を分かち合えるだろうか。見るものを自由に選べるようになった時代において、6億人もの人々が同じ時間を共有するのはもはや不可能だと考える。もしあったとしてもそれは地球滅亡の瞬間だけなのではないかとすら思う。もしかしたらその瞬間さえ、YouTubeショートのAI音声が読み上げる雑学を見ている人がいるかもしれない。大学の講義で見せられる、なかなか見れない世紀の映像を学生は平気で見逃す。日本で初めて放送されたバラエティ番組。「帰ってきたウルトラマン」の神回。浅間山荘事件。月面着陸の瞬間テレビの前にかじりつく人々の映像。一番前に座っているやつでさえ見逃す。私もたまに眠る。もはや一つの映像を同時に共有することができる人数の限界は映画館の席数分ぐらいなのではないかと思う。映画館は現代において視聴の接続が体験できる数少ない場所だと思う。最近映画館でも眠ってしまう。
電車に乗っていても、皆ワイヤレスイヤフォンを耳につけ、ノイズキャンセリング機能で世界をシャットアウトする。押す必要のない局面で、スマホ画面に視線を向けたまま私の肩を押して乗り込んでくるサラリーマンに、ちょっとした口答えをしてもそれは届かない。それはそれでいざこざがなくなるからいいとは思うし、内心ホっとしたけれど、外にいるとき、他人に自分の声が届かないのは非常に厄介だ。「ちょっとそこどいてくれませんか」「助けて」「写真撮ってもらえませんか」「サインください」「東大医学部は頭が悪い!」、勇気ある発話によるお気持ち表明が届かないなんて、甚だ馬鹿げている。そしてもっと厄介なのが、届いていたとしても人々はイヤフォンを理由に聞こえなかった”フリ”ができるということである。路上ミュージシャンで売れようとか、路上での反政府のスピーチを聞いてもらおうとか、そんなのはもう通用しなくなった。もう路上は半強制的に受信させる場ではなくなっているのだ。池袋の駅構内で歩いている女性にひたすら声掛けしている輩を見ると本当に虚しくなる。もうお前らに耳を貸すやつなどいないのに。
外の世界では視覚情報も同様にスマホに奪われ、シャットダウンされる。いわゆる歩きスマホは大事な情報を見落とす。そしてこれもまた見て見ぬフリをするための口実として用いられる。よく私も、街でさほど仲良くない知り合いを遠くに見つけたときはスマホを見て凌ぐ。普通によくない。逆も然りである。この間私はある知り合いを人を遠くに見つけた。その人とは暫く会っていないし連絡も取っていなかった。なんとなく私はその人にとても会いたかったので妙に鼓動は高まり、なんて声掛けようか言葉を探り始める。久しぶりに会った人に声を掛けるのは大分難しい。ましてやその人が歩いてくるのがわかっているのに、白々しく「え、○○じゃん!」なんて演技するのも恥ずかしい。この「!」の演技が非常に苦手なので、誰かと久々に会う場面は気まずくなりやすい。すれ違うまであと数十メートル。なんかスマホ見てるな、スマホ見てるな、スマホ、スマホ、何をそんなに見ることがある、一瞬たりとも顔を上げない。
気づけば私も気づいていない感じでポケットに手を突っ込み、大股で颯爽とすれ違っていた。私は鼻歌さえ歌っていたかもしれない。いやダサすぎる。私にとっては奇跡の再会だったのに、世紀の瞬間だったのに。一本道だぞ。その人は高そうなイヤフォンをしていて、声をかけることもできなかったのだった。