心理カウンセラー 虹子さんの中庭
あらすじ
心理カウンセラー中道虹子は、自宅で「虹のオアシスルーム」を開業している。夫の幸三は考古学者で、土偶の研究をしている。虹子の母、広乃は料理好きが高じて、大人食堂を始めてしまう。虹のオアシスルームにやって来る人たちは、皆中庭に集まる。樹木に囲まれた中庭は、四季折々の美しさでやってくる人たちを癒してくれる。不登校の小枝沙耶は、オアシスルームの中庭に通うようになり虹子の中学生の時のエピソードを聞く。少しづつ元気を取り戻した沙耶は、広乃にお弁当作りを教わり、大人食堂でボランティアを始めるようになる。
補足:キャラクター
中道虹子:(42)心理カウンセラー。
中道幸三:(42)虹子の夫。考古学者。
中道広乃:(68)虹子の母。活動的でお節介。大人食堂を初めてしまう。
小枝沙耶:(17)高校2年生。カウンセリングに来て、大人食堂のボランティアをするようになる。
中道陽一:(71)虹子の父。登山が趣味。
中道拓也:(20)虹子の長男。大学生。
中道理央:(17)虹子の娘。高校生。
佐藤真司:(25)カウンセリングルームのスタッフ
二話は、ゲームをやり過ぎてしまう男の子の母親。三話は、会話が続かない夫のことで悩む女性が虹子を頼ってくる。四話以降も、虹子のカウンセリングルームにやって来る人たちの悲喜交々の話が続く。
心理カウンセラー虹子さんの中庭
第一話
「虹子先生、桜の花って、こんなに綺麗だったんですね」
小枝沙耶は、頬を輝かせて中庭からカウンセリングルームに駆け込んで来た。
「沙耶さん、今日は一段と元気ね」
「はい、虹子先生。私、ここに来たときは、灰色の世界に住んでいました。世の中から色が消えていたんです。今日、色が復活しました」
「それは良かったこと。 そろそろ、カウンセリングも終了かな」
「えっ?それは、困るというか……」
沙耶は顔を曇らせた。
「では、中庭で、桜の花を見ながらお話ししましょうか」
「良かった。虹子先生、私、もっと先生とお話ししたいし、ここの中庭、好きなんです」
虹子と沙耶は、中庭に出た。今が盛りと満開の桜の花が空に向かって咲き誇っている。風に誘われて花びらが舞い降りて、沙耶と虹子に優しく降り注いだ。二人は無言で、しばらく桜の花を見上げていた。桜は、何かを語りかけてくるように、美しい姿で佇んでいる。
「舞い落ちてくる桜の花びらを、直接つかまえたら、幸せになれるって言い伝え、聞いたことある?」
「本当ですか。私も試してみよう」
沙耶は、立ち上がって風に舞う花びらをつかまえようとするが、中々うまくいかない。
「先生、難しいですよ。一緒につかまえましょうよ」
「私はね、中学生の時、つかまえたの。だからかな、今、とっても幸せなのは」
「よし、絶対につかまえよう」
沙耶は何回かつかみ損ねて、ようやく一枚の花びらを手に取った。
「先生、やりました。つかみましたよ、ほら」
沙耶は、誇らしげに桜の花びらを虹子に見せた。
「良かったわね、沙耶さん」
沙耶は、笑顔を虹子に向けた。
「この桜、私のひいお爺さんが植えたの。桜はね、接ぎ木で増やすのよ。桜の花が一斉に咲くのは、同じソメイヨシノの接ぎ木で増やしたからなの。ひいお爺さんは、桜の花が大好きで、自分の庭に植えたかったみたい」
「この桜、ひいお爺さんの桜なんですね」
「この桜、時々、話しかけてくるのよ」
虹子は、悪戯そうな笑顔を沙耶に向けた。沙耶は、不思議そうな顔をしている。
「沙耶さん、私も中学生の時、学校に行かなかったの」
「えっ、先生も不登校だったんですか」
「そう」
「虹子先生にも、そんな時があったんですね」
虹子は、クラスの男子から体型をからかわれたことがきっかけで、学校に行けなくなった。行こうとすると腹痛や頭痛がして、起き上がれなくなった。医者に診てもらったが、身体は異常なし。心理的なストレスが原因だろうと言われた。長く休んでいると、学校の行事にも参加しづらくなり、勉強もついていけなくなる。悪循環でますます行けない。虹子は、学校に行けない自分を責めた。母や父、その頃同居していた祖父母にも、申し訳ない気持ちで居た堪れなくなり、いっそのこと、死んでしまいたいと思うようになった。学校に行けない自分は、何の価値もない、ダメな人間だと思った。
そんな虹子を、両親は決して咎めたり叱責しなかった。虹子にとって、それは唯一の救いだった。
虹子の家は、各駅停車しか停まらない私鉄駅の、商店街を抜けた先の裏道にある。祖父母と両親と、庭のある一軒家に住んでいた。学校に行かなくなってから、虹子は一人、中庭で過ごすことが多くなった。そこは、虹子のお気に入りの場所になった。
春には桜が咲き、夏には柿の葉が木陰を作ってくれ、秋は紅葉が彩りを見せ、冬には葉を落とした木々の向こうから、青い空が虹子を包んでくれた。
学校に行ってない虹子には時間はたっぷりあったので、手当たり次第に本を読んだ。ジェーンエア・車輪の下・風と共に去りぬ・坊ちゃん・細雪・その他色々。わからないところは飛ばして、物語の世界に入り浸った。虹子は、映画を観て「風と共に去りぬ」の主人公、スカーレットに憧れた。土偶体型の自分を忘れて、スカーレットになり切って空想の世界に入り浸った。
「ずっと家にいて、外にも出られなくて、この中庭で一日中過ごしていたの。その時、桜の木が私に話しかけてくれたのよ」
沙耶は、無言で虹子を顔を見た。
「驚かないのね、沙耶さん」
「驚いてます」
「桜の木の精っていうのかしら、不思議な感覚。直接心に語りかけてくるような、でも、しっかりと聴こえているような……」
「それで、桜の木は、何て言ったんですか」
「大丈夫。心配いらないから。ここでゆっくり休んでいきなさいって」
「へえ、桜の木とお話ししたんですね、虹子先生は。私にも、話しかけてくれないかなあ。桜さん、桜さん、私の声が聞こえますか」
沙耶はそう言うと、そっと桜の幹に手を触れた。一瞬、桜の木はざわめいて、花びらを散らした。
「あの時も、今と同じ、夕暮れだったわ。一瞬、時間が止まったような感覚、逢魔が刻っていうのだけれど、この中庭が異世界にワープしたようだった。私、泣いていたのかもしれない。どうしていいかわからなくて、生きていく希望も何もなくしていたのね」
「そうしたら、桜の木が話しかけてきたんですね。不思議だけど、私、そんなことは、本当にあると思います」
「桜の木に、大丈夫だよって言われて、少しだけホッとしたの。ああ、私は大丈夫なんだって、素直に信じられた」
沙耶は、桜の木を見上げた。桜の木は、ただ泰然と立ち尽くしている。空は茜色からゆっくりと夕闇の暮色へと色を変えていく。虹子も、桜の木を見上げた。
虹子の母の広乃は天真爛漫、虹子が不登校になっても気に留めず、虹子の好きなようにさせてくれた。父は何を考えているのかよくわからないけれど、虹子を責めたりはしなかった。虹子は、学校に行かない代わりに、映画やコンサートにはよく行くようになって、少しずつ元気を取り戻していった。そんな虹子に、母が声をかけた。
「ねえ、虹子、チャレンジスクールっていう高校があるのよ。見学してみる?」
母に言われて、高校には行ってみようと思った虹子は、思い切ってチャレンジスクールに通うことにした。チャレンジスクールの居心地は、思いのほか良かった。個性的な生徒が集まっていて、虹子は全く目立たない。初めて友達もできた。学校に馴染んだ虹子は、生徒会活動にも参加するようになった。そこで、虹子は幸三と出会ったのだ。
「沙耶さん、どうかな?学校には戻れそう?」
「はい、試してみたいんですけど」
「無理はしなくていいけど、半歩だけでも踏み出してみるのも、悪くないんじゃないかな」
虹子は、横に座った沙耶の顔を見た。
沙耶は、心なしか不安な顔つきになって俯いた。
「心配なことが、まだあるみたいね」
虹子の問いかけに、沙耶は小さな声で答えた。
「学校で、お弁当を食べるんですけど、私のお弁当、全然可愛くなくて、見せられないから隠して、一人で食べるのも嫌で、でもどうしていいかわからなくて……」
「そう、お弁当は、誰が作るの?お母さん?」
「母が作ってくれるんですけど。母は仕事していて、とても忙しくて、冷凍のものをチンするだけとか、見た目が悪いって言うか……」
「沙耶さん、いい事を思いついた。私の母は、料理がとても好きなのよ。私の娘のお弁当も、母が作っているの。沙耶さんが好きなお弁当、母と一緒に作ってみようよ」
「私に作り方、教えてくれるんですか?嬉しい」
「よし、決まり。明日またいらっしゃい」
「ああ良かった。またここに通えるんですね」
「私の母は、意外と厳しいけど、根は優しいから大丈夫よ。甘えてたくさん教えてもらってね」
「はい、ありがとうございます」
生徒会活動で親しくなった幸三に、虹子は告白された。二人は付き合うようになった。
「へえ、虹子さんの家には、こんな中庭があるんですね。ほら、紅葉が散っている。綺麗だね」
虹子は、幸三にも中庭を見せたかった。二人は中庭で話をするようになった。
「私の一番好きな場所なんです。ここにいると、心がスッと軽くなるっていうか、落ち着くんです」
「わかる気がするなあ。このベンチの座り心地もすごくいい」
「あっ、お茶入れてきますね。コーヒーがいいかな」
「そんな、何もいらない。虹子さんと話ができれば、僕はそれだけで満足なんだ」
「私は、幸三さんのこと、何も知らないし、幸三さんだって、私が何を考えて、何が好きで、どんな人間か、何も知らないでしょう?」
「そうです。けど、雰囲気でわかります。虹子さんは、優しくて思いやり深くて、ちょっぴり寂しがりやで、臆病です」
「当たってる……」
「僕は、考古学にしか興味がない。土器の発掘をしている時が、最高に幸せなんだ。あ、虹子さんと一緒にいる時が、一番です」
「そんな、無理しなくていいのに」
「無理じゃない。僕は、将来考古学者になるのが目標なんだ。そして、虹子さんを幸せにするんだ」
「私は、まだ将来のことなんか考えられないけど、誰かに幸せにしてもらおうなんて思ってないよ」
「そうですよね。僕が、虹子さんと一緒にいると、僕が幸せなんだ。虹子さん、またここに来てもいい?」
幸三は、何年も虹子の中庭に通ってきた。発掘作業で思いがけず土器のかけらを見つけた話、地方の言い伝え、美味しいお土産の見つけ方まで、虹子に話して聞かせてくれた。虹子にとって、中庭で幸三の話を聞くことが大切な時間になった。虹子は大学に進学し、心理学に興味を持ち、大学院に進んで心理士になった。幸三は、夢を貫いて考古学者の卵になった。
「虹子さん。初めてここに来てから、ずいぶんの年月が経ちましたね。でも、ここは変わらない。僕の気持ちも、変わらない。むしろより強くなった。虹子さん。僕と結婚してくれないか。一緒に幸せになろう」
満開の桜の花が、音もなく舞い散っていた。虹子は、ああ、今私は幸せの中にいるのだと思った。
「はい、幸三さん。一緒に幸せになりましょう」
「ありがとう。ありがとう虹子さん」
名前など、どうでもいい。中道幸三の方が、考古学者らしくていいじゃないかということで、幸三は、婿養子として虹子の家に住むことになった。中庭での二人の語らいは続いていた。やがて長男の拓也が生まれ、長女の理央が生まれて、虹子の家は賑やかになった。
沙耶は、「高校生のお弁当」という本を片手にオアシスルームにやってきて、広乃に作り方を教えてもらうことになった。孫の理央と同じ年の沙耶を、広乃は可愛がった。
「厚焼き卵は定番だし、基本を覚えれば海苔を巻いたり、お野菜を加えたりバリエーションを楽しめるから、きっちり教えるわね」
「はい、私、厚焼き卵、大好きなんです」
「では、みりんを煮切るところから始めましょうか」
「みりんを煮切る?」
「時間が無い時は、お砂糖でもいいけど、煮切ったみりんは一味違うのよね」
「そうなんですね、メモしておこう」
「一手間かける。何でも時短、簡単がいいわけでは無いでしょ。手間をかけた分だけ、美味しくなるの。それは、人間も同じじゃ無いかしら。回り道をした方が、コクのある美味しい人間に育つものよ」
「私、今、回り道をしているんです。虹子先生も、不登校だったことがあるって聞いたんですけど……」
「そうよ。中学校の時にね、相当回り道したおかげで、コクのある美味しい人間に育ちましたよ。ちょっと、横幅は育ちすぎだけど」
「え〜、そんなこと言って、いいんですか〜」
「本人には、内緒よ」
キッチンに、二人の明るい笑い声が響いて、美味しそうな匂いが立ち込めた。
「いきなり明日から、一人で全部お弁当を作るのは無理だと思うのよ。もし良かったら、朝、お弁当作っておくから、取りに来なさい。どうせ、理央の分を作るんだから、一人も二人もおんなじ」
「そんな、そこまで甘えたら、悪いです」
「私の好きでやっていることなの。無理にとは言わないけど、作っておきますから、もし、取りに来れなかったら、スタッフの真司君のお昼になるから、気にしないでね」
「ありがとうございます。絶対、取りにきます」
沙耶は、深々と広乃に頭を下げた。
その夜、広乃は家族全員をキッチンに集めた。
全員を前に、広乃がキッパリとした口調で言う。
「世の中、何があるか、先のことなど、わかりません。わからないからって、怖がっていては何もできないでしょ。人間、死ぬ時は死ぬの。死ぬまで、笑って生きればいいじゃない? やりたいことやって死ぬのと、やりたいこと我慢して死ぬのと、皆んなはどっちを選ぶ?」
「それは、やりたい事をやって死ぬ方でしょ」
皆は、口々に言い出す。
「だから、私は決めました」
広乃が断定的に言った。
「何を?」
「私、大人食堂をやります」
「え〜、大人食堂?」
「今、子ども食堂が流行っているでしょ?食堂に集まってくる子どもたちは喜んでいるけど、大人も寂しい思いをしている人は大勢いるの。だから、そんな寂しい大人たちが心を休めることができる大人食堂は必要なの。私、やりたいの」
広乃は用意していた計画書を皆に見せた。
「私も自分の年齢を考えて、無理はしません。でも、やりたい事を我慢するのは、ダメ。だから、できる範囲のことを考えたの。どう?」
「どうって言われても、そんな急に」
虹子は、計画書に目を通しながら、さすが母だと思った。幸三が虹子のそばにきて、耳打ちする。
「虹子さん、ダメだ。お義母さんが言い出したら後には引かないよ。覚悟するしかないよ」
虹子は、ため息をついた。幸三の言うとおりだ。母は、言い出したら後には引かないのだ。虹子は考え抜いて、妥協案を提案した。
「せめて、週一回、臨時休業もありにしてほしいの。それなら、私もできる限り協力させてもらいますから、ね、お母さん」
「僕は、発掘調査で家にいる時間が少なくて申し訳ないです。家にいる時は、協力しますよ」
「ありがとう、幸三さん。ありがたいわ」
そう言いながら、広乃は陽一に視線を向けた。
「おいおい、もう、どうなっているんだ、このウチは。虹子はカウンセリングルーム、お母さんは、大人食堂。一番大切な家族である私の居場所は、どこにあるんだ」
「お父さん、僕の部屋に来てください。考古学の資料でいっぱいですが、それなりに落ち着きますよ」
「ありがとう、幸三君。男同士、助け合おうな」
「はい、お父さん」
「僕たちのこと、完全に忘れているよね、おばあちゃんも、お母さんも」
拓也は、妹の理央に呟いた。
「そうだね。でも、今に始まったことじゃないもん。私はもう慣れたから、平気だよ。お兄ちゃんも、この環境を受け入れなよ」
「お前、高校生のくせに、達観してるな」
「うん、当たり前でしょ。お母さんの娘だもん。体型は、パパに似て、本当に良かったと思っているけどね」
「ああ、理央はパパに似て、すらっとした体型でよかったよな。それに比べて、僕なんか、完全に母親のD N Aを強く受け継いじゃったからなあ」
拓也は、ため息をつきながら自分の脚を見る。拓也の短足は、母親の虹子譲りだった。
「あら、二人の意見も聞かないと。拓也と理央はどう思う?」
「どう思うも何も、もうやることに決まったようなもんでしょ?僕はいいけど、お手伝いもできないと思うよ。学校もバンドも忙しいんだ」
拓也が仕方ないと言う表情で言った。
「私も、時間があるときはお手伝いできるけど、毎週は無理。当てにされても困っちゃうけど。おばあちゃん、一緒に歌舞伎に行く時間は、忘れないでね」
「はい、わかってますよ、理央ちゃん。では、全員賛成ということでいいですね」
皆は、うなづいた。
「ありがとう、みんな。早速、来週から始めますから、よろしくね」
「ありがとう、幸三さん。疲れたでしょ」
虹子と幸三は、中庭のベンチに腰掛けてくつろぐことにした。
「僕は、何にもしてないから、大丈夫だよ」
二人は、夜空を見上げた。星がいくつか瞬いていた。
「この中庭からの眺めは、変わらないね」
「そう、初めて幸三さんがここに来た日から、もう20年以上も過ぎているのに、変わらない」
虹子はそう言うと、幸三の肩に寄りかかった。
「虹子さんも、変わらないよ。いつまでも僕の女神だ」
「そんなことない、変わったわよ。子ども二人も産んだし、体重も増えてます」
「そうだね、これ以上の体重増加は、ちょっと勘弁してほしいな」
「何よ、いつまでも女神だって、今言ったばかりなのに」
「ごめん、ごめん。虹子さんは、永遠に僕の女神だ」
夜の帳が、二人の笑い声を優しく包み込んでいく。
「虹子さん、忙しくなるけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫。人間、やりたいことをやって死ぬの。私も、カウンセリングルームを開かせてもらっているし、やりたいことやらせてもらっているから、言う事ないわ」
「それなら、僕だって、大好きな発掘調査に行かせてもらっているんだ。ありがたいと思っている」
「今度はいつ行くの?」
「来週の水曜日」
「また、面白いお話し、期待して待ってますね。この前の土偶の話も、面白かった」
「植物の形を模したものだという説ね。僕も、とても興味深かった。仮面という説も、納得できるしね。考古学は、わからないことがたくさんあるから、面白いんだ。ロマンだね」
肩を寄せ合うようにいつまでも話し込んでいる二人を、月がそっと見守るように東の空に浮かんでいた。
沙耶は、広乃にお弁当作りを習っているうちに、大人食堂でボランティアをすることになった。
お弁当を作って学校に持っていくことはできても、沙耶は友達はできず、勉強にもついていけず、中々学校に戻れないでいた。そんな沙耶に、広乃が声をかけたのだった。
「ねえ、沙耶ちゃん。今度、沙耶ちゃんのお母さんにも、ここのお料理を食べてもらいたいの。ご招待するから、どうかな、お母さん、来てくれるかな?」
「本当ですか?母も、喜ぶと思います」
では、早速、来週ね」
沙耶の母は、バリバリと仕事をこなしていた。時間の使い方に無駄はない。家の中の整理整頓もきっちりして、休みの日には掃除を徹底的にするので、家の中はいつも整っている。その代わり、料理はあまり得意でないらしく、美味しいものを食べたいときは、外食をすることに決めていた。沙耶が不登校になった時も、決して攻めたりはしない。攻めたりはしないけれど、一緒に悩んではくれない。自分の人生なのだから、自分で決めればいいと言った。周りからは、ずるをしているとか、怠けていると言われても、本人が辛くて動けないというのなら、それを信じる。まなけているかどうかは、本人が一番わかっているはず。怠けて後悔するのも自分、頑張って栄光を手にするのも自分。自分の人生の主役は自分自身だから、沙耶は沙耶の思う通りに生きればいいというのが、母の持論だった。
沙耶は、そう言われると何も言えない。その通りだから。正論で、言い返すこともできないくらい、完璧だった。いつも、沙耶の母は正しかった。
「そう、大人食堂ね〜面白いことやっているのね。いいわよ。一緒に行きましょう」
次の日曜、沙耶は母と一緒に大人食堂にやって来た。
「よくいらっしゃいました、沙耶さんのお母様。どうぞ、遠慮せずにリラックスしてくださいね」
広乃は上機嫌で出迎えている。虹子も挨拶をして、今後の学校のことなど話ができると嬉しいのだと伝えた。
「学校のことも、本人の意志で決めることです。経済的なことは何も心配はないと言ってありますので、本人の希望通り、進めてくださって結構です」
「そ、そうですか。では、転校ということも……」
「ええ、本人が希望すれば、転校して問題ないでしょう。どうせ、高校は通過点。履歴書で価値が出るのは、大学、最終学歴ですから」
虹子は、沙耶が立ちすくんでしまう心が、ほんの少し分かった気がした。そして、広乃が大人食堂を初めてくれて本当に良かったと、改めて感謝したい気持ちになった。
沙耶には、虹子が通ったチャレンジスクールを薦めてみよう。きっとうまくいく。沙耶は、すでに自分の足で歩き始めているではないか。虹子は、理央と楽しそうに話をしている沙耶の笑顔を見つめていた。
「ただいま。ああ、いい匂い。お腹すいた。広乃さん、僕たちの分も、お願いします」
拓也が、バンド仲間の前園流星を連れて帰ってきた。拓也は、流星に密かに恋心を抱いているが、誰にも明かしたことはない。
「お帰り、拓也。大丈夫よ。こちらお手伝いをお願いしている、沙耶さん、理央と同じ、高校2年生。そして、そちらが沙耶さんのお母様」
「こんばんわ」
「お邪魔しております」
拓也と流星も、皆と一緒のテーブルに着いた。
「今日も、我が家は賑やかだな」
陽一は、笑顔でテーブルに着く。総勢9人がテーブルに並んで、おしゃべりしながらの楽しい夕食が始まった。
沙耶と理央は、女子高生同士の話で盛り上がっている。拓也と流星は、バンドの曲作りや、流行っている歌の話をしている。陽一と幸三は、押され気味ながらも考古学の未来について語らっている。虹子は、テーブルを囲んだ皆の顔を見ながら、幸せそうな笑顔を見せている。
「今日はお招きいただき、ありがとうございました。沙耶が皆様に可愛がられていて、皆様のお役に立てている様子を伺うことができ、有意義でした。これからも、沙耶をよろしくお願いいたします」
沙耶の母は、そう言って頭を下げた。沙耶は、驚いて何も言わずに母親を見つめていた。
「沙耶、帰るわよ」
母娘は、連れ立って帰って行った。帰り際、沙耶は振り向いて、虹子に笑顔を見せた。
食後のデザートと紅茶を持って、虹子と幸三は中庭にやってきた。
「賑やかでしたね」
「幸三さん、お仕事で疲れているのに、大丈夫だった?うるさくなかった?」
「虹子さん。僕の専門は考古学ですが、決して古いものだけを相手にしているわけではない。物がある所、そこには人間がいた。人間の営みについて考えているんですよ。考古学とはそういう学問です」
「人間の営み?」
「そう。食べること、生きること、人を愛すること、子どもが遊ぶこと、人が老いること、病むこと。そこには、人間の営みがあったはずなんだ」
「私たちの遠い祖先が、そこにはいたのね」
「きっと、今日のように、食卓を囲んでワイワイやりながら食事をしていたんだよ。僕は、そう思うんだ」
「これから先、何百年、何千年もの時間が経っても、人間はこうやってワイワイやりながら食事をとっているのかしら」
「僕は、そうあって欲しいと願っている。僕の家はバラバラで、家族揃って食事をすることなんか、無かったんだ。虹子さん、僕は、中道幸三になって、本当に幸せだ。虹子さんは、僕の女神なんだ。永遠に」
虹子は、空を見上げた。流れ星が一つ、夜空を渡っていった。
「流れ星」
虹子の言葉に、幸三も夜空を見上げた。そこには、幾つもの星々が輝いていた。
二人が静かに笑い合っていると、広乃と陽一がマグカップを持って中庭にやって来た。
「先客がいたか」
「ああ、お義父さん、どうぞ、どうぞ」
幸三が陽一と広乃に席を譲った。
「ここの中庭こそ、オアシスだな」
「本当ですね、お義父さん。僕も旅先で思い出すのは、この中庭の眺めです」
「幸三さん、我儘な虹子のお世話をありがとうね。幸三さんには感謝してます」
「いや、僕の方こそ、いつも家を空けているばかりで、お義母さんの助け無しには、やっていけません」
「お母さん、いつもありがとう。大人食堂、大正解」
虹子は、広乃に声をかけた。
「私は好きでやらせてもらっているから、大丈夫。体力の続く限り、大人食堂は続けますよ」
「元気だな、お義母さん。さすが、虹子さんの母親だ」
「それは、褒め言葉なんですよね、幸三さん」
「も、もちろんです」
4人は、声をあげて笑った。笑い声は中庭から木々の梢を伝わって、まるで庭が笑っているように、夜空に浮かぶ星々を静かに震わせていた。
第一話 了
第二話
https://editor.note.com/notes/nef956ca4dccb/edit/
第三話
https://editor.note.com/notes/n2576602ff77c/edit/
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