心理カウンセラー 虹子さんの中庭 第三話

第三話
 奥野遥香は、沈んだ面持ちで虹のオアシスの小さな門を開けておずおずと入ってきた。
「あの、こちらは、カウンセリングルームですよね」
 ドアを半分だけ開けて、遥香は声をかけた。スタッフの真司が応対した。
「そうですよ。どうぞ、こちらにおかけください」
 真司が薦めたソファーに、遥香は浅く腰をかけた。
「緊張しなくて大丈夫ですよ。リラックスして。まずは、こちらにご記入いただけますか?」
 真司は、問診票を遥香に手渡した。
「わかる範囲でいいですからね」
「はい……」
 遥香は俯いて、几帳面な字で記入を始めた。

 遥香は31歳。奥野涼介とはアプリで出会い、交際をして気が合うように感じて結婚した。

「遥香、結婚おめでとう。やったわね。コンサル会社の若手社長。どうやって捕まえたのよ」
「どうやってって言われても。アプリよ、アプリ」
「そうか、遥香なら、この程度の男なんか、捕まえるのは当然というわけか」
「やだ、そんな言い方」
「ごめんごめん。嫉妬のあまり言葉が過ぎました。遥香、綺麗よ。一段とお美しいわ。私も花嫁衣装、着てみたいなあ」
 遥香は、勝ち誇った気持ちで、うっとりとした顔つきで自分を見つめる友人を見つめていた。私なら、このくらいの幸せは、手に入れて当然なのだ。遥香は、鏡の中の花嫁姿の自分の顔を、微笑みながら見返していた。

 婚活サイトのアプリに登録すると、様々な出会いがある。その中から選りすぐりの人を見つけるのは難しいのだ。つまらない男に引っかかったりしたら、とんでもないことになる。慎重にことを進めなければならない。
 遥香は、同じ趣味の人にターゲットを絞って探した。もちろん、見た目、収入は要チェックだ。
 涼介は、遥香と同じロックグループのファンだった。そこで、一気に話が盛り上がった。見た目も良い。若手社長といっても収入には個人差があるが、涼介はなかなかのやり手のようで、それなりの収入があった。
もちろん、遥香自身も仕事は順調で、男性に引けを取らないくらいの収入を得ていた。結婚などしないで、このまま気楽に一人の生活をエンジョイすることもいいのだけれど、何だかそれでは味気ない。やはり、幸せの形を手に入れたいのだ。遥香は、結婚にこだわった。
 それまで付き合った男は、結婚願望がまるでない男ばかりだった。楽しく、その場を華やかに過ごすことができれば、それでいい。遥香もそう思っていた時もあったが、その場が楽しければ楽しいほど、一人になった時に感じる虚しさに、耐えられなくなった。

 結婚式は、できるだけ多くの友人を招きたい。盛大にやりたい。遥香の願いはそれだった。涼介は、全く逆の考え方だった。形式にはとらわれず、簡素でいい。涼介には、友人と名乗れる友達は、ごく少数しかいなかった。結局、遥香が招く友人の費用、お色直しなど花嫁に関わる費用全てを遥香が支払うということで、涼介は納得した。

 新婚旅行は、もっとシビアだった。それぞれかかった費用は、きっちりと折半にしたのだ。お土産を買う段になって、遥香は初めてこの結婚は果たして失敗だったのではないかと疑問を感じた。
 仲人を引き受けてくれた涼介の会社の上司へのお土産代は、折半にしようと涼介が言い出したのだ。それぞれの関係者への代金は、折半にしたのなら、涼介の会社の上司へのお土産代は、涼介が持つべきだとの遥香の主張は覆された。仲人は二人の結婚のためなのだから、いくら上司とはいえ、費用は折半にすべきだと涼介は言い張った。涼介は、遥香の主張は全く受け入れない。自分の意見こそが正しいとの強い信念に貫かれていて、議論は平行線で、疲れ果てた遥香が言いくるめられてしまうのだった。
 遥香は、避妊用ピルを服用していることは、涼介には内緒にしていた。子どもが欲しくないわけではないが、妊娠、出産、子育ても一番いい季節に計画的に行うことが良いのだ。無計画にデキ婚で結婚、出産した友人のことは、内心蔑んでいた。あんなバカな真似は、私はしない。遥香は自分に自信を持っていた。

 新婚旅行から帰ってきて、一緒に暮らし始めると戸惑うことばかりだった。涼介は、何より時間にうるさかった。正確な時間でなければ、納得しないのだ。

「後何分待てば、出かけることができるのかなあ。僕は、10分待ってと言われて、すでに10分は待ったのですよ」
「だから、後少し」
「後少しとは、何分ですか」
「後少しって言ったら、後少しでしょう」
「だから、何分なのかと聞いているのです」
「そうやって言いがかりをつけらるから、余計に支度に時間がかかって遅くなるの。ちょっと、後少しだから、黙って待っててくれたっていいじゃない」
「言いがかりとは何ですか。僕は、待っていました。そして、後何分待てばいいのかと聞いているだけです。これのどこが言いがかりなのですか」
「もう、いい加減にして」
「そのセリフは、僕のセリフだ。いいです。わかりました。僕はもう出かけます。現地集合にしましょう」
「えっ?」
「お店の前に、6時30分。遅刻しないでくださいよ。では」
 そう言い残して、涼介はさっさと出かけてしまった。一人残された遥香は、怒っていいのか、泣いていいのかわからないまま支度を終えて指定された店に向かった。有名店の高級料理も、全く美味しく感じられない。それでも涼介は、何事もなかったかのように笑顔でワインを飲んでいることが、遥香には信じられなかった。しかも、その綻びは序の口に過ぎなかった。

「涼介さん、私、少し熱があるみたいで、身体もだるいの。休んでいていいかしら」
「いいですよ。もちろん。ゆっくりと休んでいればいいよ。僕は、仕事だから、出かけるからね」
 遥香が体調を崩して、仕事も休んで横になっていたその夜、帰宅した涼介は遥香に言った。
「あれ、遥香さん、僕の夕ご飯は、どうしたのかな?」
「だって、涼介さん、私体調が悪くって、休んだって言ったでしょう」
「ああ、そうだったね。じゃあ、僕は、外で食べてくるから、いいよ」
 涼介は、そう言い残して、一人で出かけて行った。遥香は、仕方なく、自分で枕元に水を用意して、それだけを飲んで過ごした。流石にその時は、泣けてきた。

 遥香は、友人にせがまれて、新居に招くことが多かった。涼介はほとんど友人がいないので、新居を訪れるのは遥香の友達ばかりだった。
 遥香は、その度にテーブルセッティングに凝り、高いワインを仕入れ、料理も手作りし、幸せの構図の写真を撮りまくった。そして、インスタにアップするのだ。でも、遥香は知っていた。インスタの向こうで友人たちがどんな会話をしているのかを。
「遥香、やり手だよね。幸せそうだけど、いつまで持つかな」
「そうだね、この旦那、何だかちょっとやばくない?」
 それでも、今手に入れた幸せの構図を手放すことは、遥香はできない。それは、負けることになるではないか。絶対に、負けたくはないのだ。遥香は、勝ち続けなければならないと、思っていた。

 会社には、休暇届を出した。妊娠ではないと、上司には伝えてあるから、すぐに復帰できる。少し休んだら、大丈夫なのだと、自分に言い聞かせたが、何をやるにも気力がなく、箸さえ重く感じるようになっていた。利用する私鉄の駅のポスターで、「虹のオアシスルーム」のことを知って、恐る恐る訪ねてきたのだった。

 虹子は、遥香の話をじっくり聞いていた。
「カサンドラ症候群かもしれませんね」
「それって、治るんですよね」
 虹子は、少し微笑み返して言った。
「何を持って治るというのか、その定義によります。前と同じ生活に戻ることを、治るというのなら、簡単です。夫と別れればいいだけですから。遥香さん、人生は、遥香さんが思っている以上に短いものです。あっという間に終わってしまう。終わりかけた時、人は後悔するのです。もっと、いい人生があったのではないか。自分の心に忠実に生きればよかったのではないか。もっと、人に優しくしておけばよかったのではないか。もっと、豊かな気持ちで毎日を過ごせばよかったのではないか。でも、その時には手遅れなのです。人生の終わりに、やり直しはできませんから」
 遥香の大きな黒目がちの瞳に、涙が溢れてきた。虹子は、黙ってティッシュの箱を差し出した。
「遥香さん、もしよかったら、中庭で暖かいレモネードを飲みませんか」
 虹子は、遥香を伴って中庭にでた。もう陽は西に傾いて、あたりは暮色に包まれていた。虹子は、遥香にレモネードを薦めた。
「遥香さん、最近気づいたことがあるんですよ。人生は、自分一人では完結できないって。人生は、出会によって作られる」
 遥香は、レモネードを飲みながら、虹子の話に耳を傾けている。
「遥香さんの人生をより深くするために、涼介さんと出会ったのかもしれません。涼介さんと歩んで行く道は、きっと荊棘の道になるでしょう。でも、だからこそ、遥香さんの人生を想いもしなかった高みにまで引き上げてくれるかもしれません。もしくは、残酷なようですが、悲しみの淵に迷い込んでしまうかもしれません。荊棘の道を行くには、それ相当の覚悟が必要ですが、もしそんな道が嫌だというのなら、簡単です。今ならまだ十分に間に合います。さっさと離婚することですね」
「それができないから、こうしてご相談しているんです」
「そうですか。それなら話は早い。これから、遥香さんの、本当の意味での人生が始まります。遥香さん、最近、本を読んでいますか?」
「いえ、全く」
「それでは、宿題と思って、好きな作家の小説、短編でも構いませんので、読んできてください。感想を聞かせてもらいます。そして、涼介さんとご一緒に来てくれませんか」
 遥香は、小さく頷いた。

#創作大賞2024 #漫画原作部門

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