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夢のグリーンスムージー
(第二回あたらよ文学賞の一次選考通過(二次落選)作品です)
――当店は青菜専門の移動式八百屋でございます。各種野菜の販売はもちろんのこと、お好みの青菜で作ったグリーンスムージーをご提供致します。お気軽にお声掛けください。
八百屋の店先に置かれた黒板には白いチョークでこんな文句が書かれていた。
喉がごくりと鳴る。今まで特に意識はしていなかったがどうやら私は相当喉が渇いていたらしい。だから「グリーンスムージー」という単語がことさら魅力的に感じられてしまうのだろう。
見上げれば、店の入り口の真上に掲げられた看板が目に入る。「夢野青果店」の五文字が並んでいた。しかし、青果店という言葉から想像されるような昔ながらの八百屋というわけではない。
赤レンガの積み上げられた外壁。キラキラ輝く大きなガラス窓。覗き込むと、中の空間もやはり暖かい色調のレンガ壁に包まれ、ホワイト基調の木材のカウンターの上に瑞々しい青菜が所狭しと並べられているようだった。八百屋というよりパン屋に近い。
――最近はこんなにお洒落な八百屋さんもあるんだなぁ。だけど、黒板には「移動式」って書かれてなかったっけ? この建物がまさか移動できるようには思えないが……。
私は心に疑問を抱きながらも自動ドアを通り抜けて中に足を踏み入れた。
店員は奥にいるのか、店内には私一人だった。
誰にも見られていないことをいいことに、興味を惹かれるまま、カウンターに並んだ青菜の群れとプレートに書かれた品種名をじっくりと眺める。
聞いたこともないような珍しい野菜ばかりだった。
オニタイジノカタ菜、ウシロフリムク菜、ユウレイコワイ菜、ガタガタウル菜、ドロドロヘイヤ、ハクシュン菊……。
その中でも特に私の目を惹きつけたのは、鮮やかなスカイブルーの葉を茂らせた一束の美しい青菜であった。
「いらっしゃあーい」
不意にすぐ近くで声がして私はびくりと体を震わせた。
「あら、ごめんなさいね。びっくりさせちゃって……。うちのお野菜、真剣に吟味されていたのね。何か気になるものはございましたかしら?」
女性言葉だが、声は掠れていて低かった。
私は顔を上げた。しかし、そこには人間の姿はなかった。代わりに針のような白い毛に覆われた緑色の巨大な肉塊がすぐそばに聳え立っている。
私は思わず「わっ」と声を出して仰け反った。
「あらあら、またびっくりさせてしまいましたわね……うふふ」
肉塊は先端のツルンとしたコブのような部分をもごもごさせて笑う。どうやらそこが顔らしい。
「あたくし、夢野青果店の店主……夢野青虫でございます。どうぞよろしく」
私の体よりも大きなその肉塊は、あいさつをしながらリズミカルに身をくねらせた。
「あおむし……?」
私は呆然としつつも肉塊を改めてまじまじと眺める。子供の頃に近所のキャベツ畑にこっそり忍び込んだ時の思い出が蘇ってきた。黄緑の葉の上で蠢いていた無数のモンシロチョウの幼虫……。目の前にいる肉塊はそれを思い切り巨大化させたもののようである。
「簡単に説明しますわね。実はここはお客様の夢の中の世界なんですの。あたくしは正確には霊界に棲息するオバケモンチョウの幼虫。人間の皆様の魂を肥料にして育った青菜を食べて生きております。たくさんの種類の青菜を食べてきていますので、もはや青菜のソムリエと申しても過言ではございません。ですので、この経験を生かし是非人間の皆様にご恩返しをしたいと思いまして、先日、移動式の八百屋をオープン致しました。人間の皆様の夢から夢へと移動しながら自慢の青菜を使ったグリーンスムージーを販売しております。そして、今宵は貴方様の夢の中に辿り着き、失礼ながらお店を開かせていただいたというわけです」
「へぇ……そうなんだ。驚いてしまって悪かったね」
私は彼女(?)の説明に納得し、謝罪した。奇妙奇天烈な話のはずなのになぜか違和感なく受け入れられたのは、やはりここが私の夢の中の世界だからこそなのだろう。
「ところで、お客様、こちらのお野菜を気にされていたようですわね」
青虫は胸部からぷっくり生えた前脚でスカイブルーの青菜を指し示した。
「こちらは空想連草という珍しい青菜ですの」
「くうそうれんそう……」
私は聞きなれない青菜の名前を反芻する。響きはほうれん草に似ているが、どんな味がするのだろう?
「せっかくですので空想連草のグリーンスムージー、飲んで行かれますか?」
「じゃあいただこうかな。けれど、私は今、スマホも財布も持っていないよ。どうやってお代を支払えばいいの?」
「お客様の魂……それから、お客様の知っていらっしゃる物語の記憶を頂戴いたします」
「魂? そんなものを取られたら死んじゃうじゃないか」
「魂の持つエネルギーのうちのほんの少しだけですわ。スムージーの一杯程度なら命に別状は全くない程度ですのでご心配には及びません」
「そうか……じゃあ別にいいかな。それと、物語の記憶って言ってたね。どういうこと?」
「昔話や小説、ドラマ、漫画とか……完結しているフィクションのお話ならなんでも構いません。そのお話を思い浮かべていただければ、あたくしがお客様の思念から空想エネルギーを取り出してグリーンスムージーにミックス致します」
「ふーん……じゃあ、例えば、桃太郎とかでも?」
「ええ! 桃太郎でも問題ありませんわ。……桃太郎にしてみます?」
「あっはい……じゃあそれで」
「あ、ちなみに、グリーンスムージーにミックスした物語についてはお客様の記憶から完全に消えてしまって二度と思い出せませんけど……それでもようございますか?」
「別に構わないよ。桃太郎を知らなくても生活する上で支障はないだろうし」
「分かりました。それでは早速作り始めましょう」
青虫は尖った円錐を逆さにしたような透明なカップを取り出した。ミキサーだろうか? けれど、青菜を切り刻むための刃もそれを動かす駆動部も付いていないように見える。
「それっ!」
青虫はもっちりとした尻を持ち上げてくるっと器用に曲げながら空想連草の束を掴み取り、そのまま勢いよくカップにぽんっと投げ入れる。
「それっ、それっ、それっ、それっ、はいはいはいはい! あっおあおあおあっおーなぁー!」
青虫は歌い出す。そして、不思議なその歌声に合わせて、カップがぐるぐると高速でコマのように回り出した。
あおっ、あおっ、あおいのはなぁに?
なっぱのなぱぱ〜
いとしかわいやあおなちゃん
なっぱなっぱぱぱやぱやぱや〜
むかしむかーしあるところ〜
どんぶらこっこどんぶらこ〜
ながれてきたのはな、な、な、なあに?
青虫は太い丸太のような体をぐねぐねとくねらせながら店内に響き渡る声で歌い続ける。めちゃくちゃな歌である。けれど、聴いているうちに私の頭にはかの桃太郎の物語が清水が湧き出るように自然と蘇ってきたのであった。
おじいさんは柴刈りに。おばあさんは洗濯に。どんぶらこっこどんぶらこ。巨大な桃の登場。桃太郎の誕生。鬼の横暴。きびだんご。さるいぬきじ……。
そうしているうちにも、カップの中では空想連草が遠心力で混ぜ合わされ、晴天下の海のような眩い輝きを放ちながらみるみるうちにドロドロとした液体に変化していく。
「さあ完成でーす!」
青虫が高らかに宣言した。カップの回転が止まる。尖った円錐形のカップはそのまま私に向かって差し出された。私はハッと目が覚めるような心地で反射的にカップを手に取った。受け取ったグリーンスムージーはむしろブルースムージーと呼ぶ方が相応しいような鮮やかな青色の液体である。美しいことは確かだが決して食欲の湧くような見た目ではない。
「いただきます……」
私はおそるおそるカップに口を付ける。そして、目を閉じてぐびっと一口飲んでみた。
甘く爽やかな桃の風味が口の中に広がる。
「美味しい……」
私は思わず声に出して呟いていた。
二口目。やはり甘かったが、今度は果物というよりも砂糖のような甘味が強く、もちもちとした感触が口の中に残った。これはもしやきび団子の味?
三口目。今度は目の覚めるようなスパイシーな味だった。舌の上で何かが大暴れしているかのようだ。桃太郎達と鬼達の激烈な戦闘を表す味なのかもしれない。これはこれで悪くはない。
「いかがですか? お客様の桃太郎の記憶を配合した空想連草のスムージーのお味は?」
「うん。美味しいし、それに、面白い。思い浮かべる物語によって味が変わるなんて、さすが夢の中の飲み物だ! 感動したよ」
「お気に召しましたようで何よりですわ」
「でも残念だな。この八百屋は移動式と言っていたね。明日の夜には別の誰かの夢に移動してしまうんだろう? このグリーンスムージーがもう二度と味わえないなんて……」
私は心から落胆して言った。
「あらあらあら……そんなに気に入っていただけましたの? 嬉しいわぁ」
青虫はまたしても体を左右にぐねぐねとくねらした。
「ようござんす! ではしばらくはお客様の夢をお借りして営業を続けますわ。お客様が望まれる限り、ずっと……」
「本当かい? 嬉しいなぁ」
「うふふ……では、明日の夜もお待ちしておりますわね」
桃太郎というシンプルな童話でこれだけ変化に富む味を楽しめるのなら、たとえば、映画一本分の記憶をスムージーに混ぜたらどうなるだろうか……。そんなことを考えているうちにふうっと意識が遠のいた。
気がつくと私は自室のベッドの上に横たわっていた。窓の外はもう明るい。朝がやってきたのだ。
「お邪魔しまーす」
私は次の夜も夢野青果店にやってきた。自動ドアがごぉっと気持ちの良い音を立てて開く。目の前に広がるのは昨夜と同じ青菜達の陳列風景だ。ただ一つ違うところと言えば、スカイブルーの空想連草の量が昨日よりも若干増えていることだった。青虫が私のために空想連草を多めに仕入れてくれたのだろうか。
「……お邪魔しまーす」
私は静かな店内でもう一度呼びかけた。青虫は留守なのかと少し不安になり、カウンターの向こうを覗き込む。白くて大きな長いビニール袋のようなヘナヘナしたものが床にへばりつくように捨てられているのが目についた。
「あらあら! いらしてたのね! ごめんなさいねぇ、お待たせしちゃって……」
青虫がカウンターの下から突然ぬっと顔を出した。会うのは二度目とはいえ、巨大な青虫が目の前に出現するとやはりギョッとしてしまう。それに、青虫の体はなんとなく昨日よりもさらに大きくなっているような気がするのだ。
「実はさっき脱皮してしまったんですの……。お恥ずかしいわぁ。今片付けますわね。ほほほほ……」
青虫は、カウンターと壁の間に挟まったむちむちした体を窮屈そうに折り曲げていそいそとビニール袋……いや、自分の抜け殻を持ち上げた。
「あの……今夜もまた空想連草のスムージーが飲みたいんだけど」
「承知いたしました。ミックスする物語はお決まりですか?」
「実は仕事帰りに映画を見てきたんだよ。今流行りの冒険アクション映画なんだけど」
「それはよろしゅうございますね。新鮮な記憶からはより美味しいグリーンスムージーが作れますから」
「どんな味がするか楽しみだなぁ。昨日の桃太郎もすごく美味しかったから……。桃太郎の……あの……あれ? 何だろう……すごーく美味しかったことは覚えているんだけど……。一体何が桃太郎っぽい味だったのか、全然覚えてないや」
私は自分が桃太郎のお話をすっかり忘れ去っていることに改めて気がついた。
「ふふ……それは結構なことでございますわ。それでは今回もさっそく作り始めてまいりましょう! あ、それっ、それっ、それっ、それっ、はいはいはいはーい! あっおあおあおあっおーなぁー!」
青虫は歌い、踊り出す。円錐形のカップはぐるぐる回る。その中でスカイブルーの青菜も踊るように跳ねながら液体へと変わっていく。私の脳内では見てきたばかりの映画が超高速で再生されていく。
南洋の孤島に流れ着いた主人公とその仲間達。彼らに襲いかかるのは遺伝子操作された猛毒ミミズの群れ。友情、ピンチ、決断……そして、裏切り……親友が実は黒幕だと知った時のショックと悲しみと怒り……最終決戦の死闘を経て、ラストは穏やかで平和なエピローグで幕を閉じる。
映画としては正直B級で陳腐な展開ではあったことは否めない。しかし、出来上がったスムージーは意外な程美味しかった。トロピカルでエキゾチックな風味に大地の湿った香りがほのかに漂う。舌先にピリッと痺れを残すような後味も良いアクセントだ。私は夢中になってカップの中身をあっという間に飲み干していた。
私はこうして空想連草のグリーンスムージーの不思議な味にますます魅了されてしまったのである。
ファンタジー、SF、学園モノ、恋愛、ホラー、コメディ、歴史、ミステリー……。
私は起きている間は寸分の時間をも惜しんでありとあらゆるジャンルの小説、漫画、ドラマ、映画を片っ端から見まくった。全ては美味しいグリーンスムージーを味わうためだ。仕事の休み時間も必死で本を読み耽り、仕事が終われば映画館に駆け込むという毎日が続いた。そんな様子を目にした同僚達は「最近は文化的趣味に目覚めたんだね」と茶化しつつ、流行りの映画はどうだったか、とか、おすすめの小説を教えてくれ、だのいろいろと訊いてくるようになった。そんな時が一番困る。何せ私は物語の記憶はあらかた全てスムージーにしてしまって何も覚えていないのだから。
あまりにも綺麗さっぱり忘れてしまうものだから、一度不安になって、既にスムージーにミックスしてしまった映画を再度見に行ったことがある。けれど、映画館を出た瞬間何も思い出せなくなっていた。映画以外でも同じことで、例えば、本屋で桃太郎の絵本を立ち読みしても、内容が全然頭に入ってこないのである。
せっかく見たり聞いたりした物語を全て忘れてしまうのもそれはそれで勿体無いのではないか、と思わない事もない。だが、舌の上で広がる物語の妙なる味を知ってしまった今、そんなことは些細な問題だという気持ちの方がやはり勝っていた。
「うーん……ネタ切れだなぁ。最近記憶した物語は全部飲んでしまったよ」
その夜、私は青虫が用意してくれたテーブルの前に座って寛ぎつつ、頬杖を突いて眉根に皺を寄せていた。次にミックスすべき物語の記憶がどうにも思い浮かばなかったのだ。
「お客様……流石に飲み過ぎじゃなくて? 昨夜なんて十杯も飲んでいかれたでしょう? ネタ切れだけじゃなくてお体は大丈夫なの?」
青虫が苦笑する気配が伝わってくる。青虫は何回か脱皮を繰り返してさらにぶくぶくと膨張し、今や頭部は天井に届くまでになっていた。大蛇のような体を折り曲げてなんとか店内の空間に収めている。もはや壁の一面のほとんどを青虫の体が占めていると言っても過言ではないような状態だ。
「大丈夫だろう? 酒じゃあないんだし」
「確かにうちの青菜はヘルシー自慢ですけどね。でも、忘れないでちょうだいね……スムージー一杯ごとにお代としてお客様の魂をちょっとずついただいているってこと」
「そういえばそんなことも言っていたね。だからかなぁ……最近、日中なんだかすごく怠いんだよね」
「もう、呑気なんだからぁ」
青虫は笑って体をくねらす。店がぎしりと音を立てた。
「うーん、じゃあ寝る前に見たドラマの記憶でも飲んでみようかなぁ」
「連続ドラマ?」
「そう。犯人が分かりそうでちょうど良いところだったからスムージーにしちゃうのはちょっと気が進まなかったけど……」
「だめよぉ、最初に言ったでしょ? 空想連草のグリーンスムージーに混ぜられるのは完結した物語をだけだって。未完成の物語は入れられないの」
「そっか……それも忘れてたよ」
「たまには空想連草以外のスムージーも飲んでいかれる?」
「うーん……でもなぁ。やっぱりせっかくだから空想連草が飲みたいんだよなぁ」
私は恐れていた。いつの日か夢野青果店が私の夢から去っていってしまうことに。そうしたらもう二度とあのグリーンスムージーを味わえなくなってしまうだろう。だから今のうちに一杯でも多くの空想連草のスムージーを味わっておきたかったのだ。
「じゃあ……こういうのはどうかしら? お客様がご自分で考えた物語をスムージーに加えてみるっていうのは」
「自分で……?」
私は青虫の提案にはっとした。
「ご自分だけのオリジナルの物語でしたら美味しさもひとしおじゃないかしら?」
青虫はくすくすと笑っている。青虫の白い体毛が私の頬に当たってくすぐったかったが、私はもはやそれどころではなかった。
「いい……! いいね、それ! 名案だ!」
私は叫んだ。
「何にしよう? ファンタジーやSFでインパンクトのある刺激的な味を楽しむのもいいし、ほのぼのした童話で優しくまろやかな味をじっくり味わうのもいいな。ちょっと待っててくれ。今、物語を考えるから……」
「ほほほ……お客様ったら急にお元気になられましたわねぇ。でも残念……朝が近づいて参りましたわ」
「えっ、そんな……」
「本日もご来店ありがとうございました。物語は起きていらっしゃる間にゆっくりお考えくださいましね。今宵もお待ちしておりますわ……ふふ」
青虫の含み笑いとともに視界がぐらりと揺らいだ。青虫の体表の黄緑、カウンターに山積みとなった青菜達の緑、そして空想連草の青……それらが混ざり合ってマーブル模様に渦を巻く。意識が朝の世界に向かって浮上する。
気がつけばスマホに設定した目覚ましアラームが私の耳元で騒がしくがなり立てていた。私は飛び起き、慌てて自室のデスクの前に座った。ノートパソコンを開き、電源をONにする。指先はキーボードを叩く。画面の上に文字が生まれる。
私は小説を書き出したのであった。
「はぁー、最高だったな。今夜のスムージーの味は……」
夢の中の私は円錐形のカップを手にしたまま、深いため息を吐いた。口の中に残る余韻を精一杯味わっていたのだ。
「私が中学生の時の初恋の経験をモチーフに短編小説を書いてみたんだけど、甘酸っぱくてほんのり涙のしょっぱい味がして……なんとも胸に迫るものがあったよ。今までの人生の中で一番美味しい一杯だったかもしれない」
「あら……それこそお客様だけの物語、お客様だけの味ですわね。素敵だわぁ」
「おかげで初恋の相手の顔も名前もすっかり忘れちゃったけどね……はは……」
私は朗らかに笑った。長い間胸の奥底に眠っていた初恋の記憶も、こんなに美味しいスムージーになるのであれば、良い供養になったと言ってもよいかもしれない。仕事を休んでまでも一日がかりで小説を完成させた甲斐があった。
「もっと書きたいなぁ……物語を。そして味わいたい……私だけの未知の味を」
「あたくし応援しておりますわ。そんな風にして最後まで美味しく召し上がっていただけるなんて、空想連草もきっと喜んでいますわよ」
「え……?」
青虫がさり気なく言った言葉に私は引っかかりを覚えた。
「最後って……今、言ったかい?」
「ええ……実は空想連草はもうここにある一束だけなんですの。この一束を最後に絶滅してしまいますわ」
「ぜっ……ぜつめつぅ?!」
衝撃のあまり思わず声が裏返ってしまった。
「農家の方によると空想連草を育てるための良い苗床が見つからないらしくて……だから最後の一杯、是非大切に召し上がってくださいね」
私は二の句が継げなかった。空想連草が無くなってしまったら私は一体何を生き甲斐に生きていけばよいのだろう。
気が遠くなるような絶望だった。
視界が暗くなる。ああ、何ということだろう。このショックで気絶できるならしてしまいたいとさえ思うものの、幸か不幸か、夢の中では気絶はできない。
だが、その時、絶望の中で私の頭にはある考えが啓示のように瞬時に閃いたのである。
「青虫さん……お願いがあります」
私はなんとか絞り出すような声で言った。
「何でしょう?」
「私の夢から出ていっていただけませんか?」
「あら……意外なお言葉ですわね。よろしいんですの?」
「正確に言うと、一度他に移っていただいた後、再度私の夢に帰ってきてもらうことは可能ですか?」
「できますけども……制限がございますわ」
「制限?」
「一度お客様の夢から出ていったからには、たとえ戻ってきたとしても一晩しかいられませんの。ちょうど一ヶ月後の新月の夜……その時だけ……」
「一ヶ月……」
私は唸った。私にとっては短すぎる。けれど、心は既に定まっていた。
「……分かりました。一ヶ月後の新月の夜にまたお会いしましょう。だからその時まで最後の空想連草は私のために残しておいてください」
「承知致しました。空想連草の最後の一束はお客様のものですわ……頑張ってくださいね」
青虫は私の心を見透かしているかのように言った。
そして、また朝がやってきた。
ベッドから飛び起きてまず私がやったことは会社への休職願いを書くことだった。
次の新月の夜はあっという間にやってきた。
私は自室のデスクの上のノートパソコンを睨みつけながら獣のような声で呻いていた。
私がこの一ヶ月間、仕事も休み、寝食も忘れて書き進めてきた長編小説……そのラストがどうしても決まらなかったのだ。
「なんてことだ……今夜が空想連草のスムージーを飲める最後のチャンスだと言うのに……」
私は歯噛みした。史上最高に美味しいグリーンスムージー……それは自分で創造した長大な物語を空想連草にミックスしたものであろう、と私は確信していた。そして、それこそが空想連草との別れを惜しむために相応しい一杯なのである。そのために宇宙空間を舞台にした壮大なSFファンタジー小説を、この一ヶ月間で必死に書き進めてきたのだ。
「くそっ……眠い。もう少しで書き終わるのに……」
早く物語を完結させて、そして、眠りにつき、夢野青果店に行かなくてはならない。しかし、焦れば焦るほど、ラストのアイデアはどうしても出てこないのであった。
執筆疲れも手伝って容赦なく睡魔が私に襲いかかってくる。
「うう……ねちゃだめだ……ねては……うっ……ねむ……い……」
私の頭がガクリと前のめりになる。
抵抗も虚しく、とうとう私は小説を完結させる前に睡魔に負けてしまった。意識は一気に夢の底へと下降する。
気がつけば私はいつもと変わらぬ夢野青果店の前に立っている……はずだった。
しかし、目の前にあったのは、辛うじて店の外観を残しつつも今にも崩れ落ちそうな廃屋であった。
割れた窓ガラス。
大きな穴が開いたレンガ壁。
滑り落ちてきそうな程に急角度に傾いた屋根……。
私は呆気に取られて立ち竦んだ。
「一体……何が起きたんだ?」
入り口の自動ドアは取り外されている。私は戸惑いつつも暗い店内に足を踏み入れた。
「うわっ!」
私は早速叫び声を上げた。店に入って二、三歩歩いただけで壁に突き当たってしまったのである。緑色で、ざらざらして、ふっくらと丸みを帯びた不思議な壁である。
「青虫さん……?」
おそるおそる私が呼びかけると緑の壁はぶるんっと大きく振動した。
「わぁ!」
私はまたもびっくりして仰け反り、尻餅をつく。
「いたたたた……あれ? 何だこれ……」
私が倒れた場所のすぐ横に一枚の紙が置いてあった。文字が書かれている。
――お久しぶりでございます。おかげさまで無事に蛹になることができました。空想連草の最後の一束はお約束通りお客様のために取っておいてあります。セルフサービスになってしまいますが、どうぞスムージーをお作りになって、最後の一杯をお楽しみください。夢野青虫より。
「さなぎ……?」
私は緑色の壁を改めて見上げた。もしやこれが蛹なのか。私は驚愕しつつも納得した。きっと青虫は、私の夢を去った後でさらに成長して巨大化し、そのために店を破壊してしまったのだ。そして、そのまま蛹に変態したのだろう。もう私には全体が見渡すことができず、ただの壁としか思えない程の超巨大な蛹へと……。
カラン! カララン……!
突然、軽い音ともに何かが頭上から落下し、私の足元で跳ねた。
円錐形のカップ……そして、その中にはスカイブルーの青菜が詰め込まれていたのだった。
私は慎重に拾い上げる。
青虫からの手紙には確か「セルフサービス」と書いてあった。つまり私が自らグリーンスムージーを作るということだ。自然と胸の奥が熱くなる。緊張するが、やり遂げなくてはならない。
「……あーおあおあおあっおーなぁー……」
私は小声で歌い出す。スムージーカップはふわっと空中に浮かび上がってゆっくりと回転を始めた。でも、まだだ。美味しいスムージーを作るには遠心力が全然足りない。だめだ。恥ずかしがっていてはだめだ。全力で歌うのだ。もうすぐこの世界から消えてしまう空想連草のために。
「……あ、それっ……それっ、それっ、それっ……はいはいはいはーい! あっおあおあおあっおーなぁー!」
私は声を張り上げた。立ち上がり、青虫のように身を捩り、足を踏み鳴らして踊り出す。
カップの回転のスピードがアップする。
ぐるぐるぐるぐるぐる……。
スカイブルーの葉が砕け散る。水分が搾り出される。私の頭の中では私だけの物語が生き生きと再生される。私の創作した大宇宙が弾ける。ストーリーは山あり谷あり流れていく。存在しないラストに向かって……。
あおっ、あおっ、あおいのはなぁに?
なっぱのなぱぱ〜
いとしかわいやあおなちゃん
なっぱなっぱぱぱやぱやぱや〜
みらいにながれるものがたりりりり〜
あおなちゃんのためのおはなしよ〜
うちゅうはじけてびっぐばあーん
さいごのおあじはな、な、な、なあに?
そして、とうとうスムージーは出来上がった。
今までで一番美しいと思える程の澄んだ青色の液体だった。
深呼吸をする。カップを両手で包み込むように掴む。唇を縁につけ、カップを傾ける。液体が口の内側に流れ込んでくる。
舌の上で宇宙が弾けた。まさにビッグバーンだ。
私の両目から自然と涙が溢れ出た。
美味しすぎる。まさに至高の一杯……!
胃袋が踊り出す。全身が熱を持つ。燃えるようだ。死んでしまいそう……いや、この瞬間、もう死んでもいい。心からそう思えた。
自分の想像力が創り出した長大な物語の味は、あまりに刺激的で、暴力的で、魅惑的で、私の意識は舌先の快楽に痺れながら次第に遠のいていく。
「お客様……お客様……起きてくださいまし」
青虫の声がする。
私はゆっくり目を開けた。
私の頭より大きなメタリックな半球が視界に入った。半球は二つあり、それぞれの半球の上には細長い棒のようなものも突き出している。そして、その周りにはぼさぼさの銀色の毛が密生していて、毛の茂みの中からは一本の曲がりかけの針金のようなものがでろんと垂れ下がっていた。
何だろう、これは……。見たことがある。例えば、小学校の理科の教科書に載っていた……。
「あたくし、蝶々になれましたのよ」
そうだ。蝶の頭部を正面から見ているのだ。二つの半球は蝶の複眼だ。
「お客様ってば……あれほどご注意申し上げましたのに未完成の物語をスムージーにしてしまいましたわね」
ああ、確かに……。私の長編小説はラストが欠けていた。でもほとんど出来上がってはいたんだ。あと少しで完成だった。内容はもう忘れちゃったけど。
「未完成の物語をあのスムージーカップの中に入れると、カップが物語のラストを探して稼働し続けてその人の魂を吸い取り尽くしてしまうんですのよ」
なんと、そういう仕組みだったとは。じゃあ、私はもう……。
「ええ。お客様はもう現世には戻れませんわ」
つまり、死んじゃったということか。
「でも、喜んでくださいまし。あたくし、カップの底に残っていたお客様の魂のかけらを回収しましたの。そして、お客様を空想連草の苗床にすることにしました」
なえどこ……?
そういえば青虫はかつて言っていた。苗床が足りないために空想連草は滅びてしまうのだと。
そこまで思い出してはっとする。今の私の体……痩せ細り、紙よりも薄くなって、少しでも動けばほろほろと崩れ散ってしまいそうなこの肉体の上にはさわさわと幾重にも葉影が揺らいでいる。逆光になってはっきりは見えないが……明るい日差しを透かして降り注ぐスカイブルーの淡い光……。
そうだ、私の体の上には空想連草が生い茂っているのだ。
「お客様のように想像力豊かで、しかも空想連草を心から愛してくれる方の魂のこそ、苗床には最適なのです。お客様が苗床になってくださったおかげで空想連草は絶滅を免れたのですわ」
そうなのか……私の魂が空想連草を救ったというわけか。そうであれば、この命も決して惜しくはない。この美味しくて愛おしい青菜をこの世界から消してしまわなくて本当に良かった。我が人生に一片の悔いなしだ。
「あたくしはもう行かなくては……その前にちょっと失礼しますわね。……うんしょ」
青虫……いや、異界の蝶・オバケモンチョウは体の向きをぐるりと変えると、こちらに向かって尖った尻を突き出した。にゅるんとひしゃげたラグビーボールのような形状の白いモノが勢いよくひり出される。白いモノは空想連草の葉の上に器用に引っ付いた。
それが何か、私にはすぐに分かった。オバケモンチョウの卵である。
「きっとその子が大きくなったら夢野青果店を継いでくれるはずですわ。お客様……どうかその子に空想連草のグリーンスムージーの作り方を教えてやってくださいましね」
ああ、もちろんだとも。
私は声にならない声で応える。
「それではいよいよお別れですわ。あたくしはこの命尽きるまで飛び回ってこの世界のたくさんの青菜に少しでも多くの卵を産みつけなくては……。お客様、ごきげんよう。さようなら、さようなら……」
オバケモンチョウはふうわりと飛び上がった。煌めくコバルトブルーの翅が私の視界いっぱいに広がる。
それっ、それっ、それっ、それっ
はいはいはいはい
あっおあおあおあっお〜なぁ〜
あおっ、あおっ、あおいのはなぁに?
なっぱのなぱぱ〜
いとしかわいやあおなちゃん
なっぱなっぱぱぱやぱやぱや〜
オバケモンチョウの歌が世界に響き渡る。
相変わらずめちゃくちゃなリズムだ。
卵の殻から透けて見える小さな黒い影は、歌のリズムに合わせてぴくぴくと身じろぎをしている。
空想連草の苗床となった私は、オバケモンチョウの旅立ちを見送りながら、生まれてくるこの子にどんな物語を語り聞かせようかと考えていた。
(了)