小説は料理のレシピみたいだということ
明けましておめでとうございます。
二人の子の育児にいっぱいいっぱいで、今の生活状況的に落ち着いて小説執筆することが難しい日々が続いています。
なので、今年は無理に書こうとはせず、「自分はなんのために書くのか」「小説を書くということは自分の中でどういう意味を持つか」ということにできる限り向き合ってみよう、と思っています。
改めまして今年もよろしくお願いします。
さて、今日は「小説を書くこと、読むこと」についてぼんやり考えていました。
結果、小説=料理のレシピみたいだな、ということに思い至りました。
小説は言葉だけで表現されたものです。
そのため、ある文章を読んで感じること、思い浮かべるイメージは、読者により異なります。
たとえば「彼女は目を細めて優しい声で彼に話しかけた」という文章で読者が想起する「目を細める様子」「優しい声」は、読者ひとりひとり違うでしょう。読者は自分自身の記憶・経験の中から「目を細める様子」「優しい声」を引っ張り出して、文章に当てはめて、頭の中でイメージを膨らませながらストーリーを追っていくのだと思います。
つまり、読者は、個々の文章をてがかりに自分の経験という材料で調理(=読書)をして、物語という料理を完成させます。
小説は読まれてはじめて読者の頭の中で完成するのです。
出来上がった物語はその読者だけが味わえるものであり、他者との共有は不可能。時に、作者が思ってもみなかった出来栄えになっていることもあります。
たとえば、先日私が書いた「夢のグリーンスムージー」という短編小説に登場する青虫の店主……私は「不気味で得体が知れないけれどどこかユーモラスな存在」を意図して書きましたが、あたらよ文学賞の講評でも、いただいた感想でも「店主が可愛かった」と言っていただきました。
「可愛い」という感想は私にとって予想外でしたが、読んでくださった方の頭の中では、その人だけの「可愛い青虫」が誕生して活き活きと喋ったり歌ったりしてくれていたのでしょう。それはそれで大変面白く、嬉しいことです(ありがとうございました)。
また、たとえば、古典や海外小説がとっつきにくいのは、その物語を完成させるための材料=経験が読者側に足りないので、足りない分の材料は「知識」を足して補完する必要があるからなのでは、とかも思います。
というわけで、小説=料理のレシピみたいなもの、と、今のところ考えていますが、では、良い小説=良いレシピとはどんなものか……。
読者が材料を取り出しやすくて料理しやすい=読者の経験とリンクした表現で読みやすい文章が「良い小説」の条件なのかな。
それとも、「誰が作っても大まかには同じような味になるもの(たとえば、誰が読んでも「波瀾万丈でハラハラするけれど最後は希望が持てる」等の印象を得られる=ストーリーに対する印象にばらつきがない)」が良い小説なのでしょうか?
ここらへんはもっと考えて答えを探す必要があるかもしれません。
ちなみに余談ですが、小説がレシピだとすると、視覚的な情報がメインの映画、ドラマ、アニメ等の映像作品は、「レストランで出てくる調理済みの料理」という感じがします。
小説のコミカライズや映像化も「レシピをもとにプロが高級食材で作ってくれた料理」といえるかもしれません。
昨年アニメ化された米澤穂信さんの日常ミステリ「小市民シリーズ」……私は本編の四冊(春夏秋冬)を読了してからアニメを見ましたが、映像も美しくて雰囲気も良く、スイーツも美味しそうで、原作ファンにとってもかなり満足度の高い映像化だったのではないかと思います。
けれど、私が小説だけを読んだ時に思い浮かべていた小鳩くん、小佐内さん、堂島くんとは「イメージが違う……」と正直感じました(映像化あるあるだとは思いますが)。
それでも、見ているうちに、登場人物のイメージはアニメの映像に次第に上書きされて、小鳩くんたちの顔を思い浮かべようとすると、今ではあのアニメの映像しか想起できないようになってしまいました。
未読の一冊「巴里マカロンの謎」……読んだらきっと私の頭の中ではアニメの登場人物が動いたりしゃべったりするんだろうなぁ、と思います。
自分だけの物語のイメージが上書きされる……そう考えると、小説のビジュアル化もなんだかちょっと勿体無い気もします。