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お花畑思想にすぎなかった小日本主義
左翼陣営が戦前の日本を非難する際、必ず持ち出してくるのが軍国主義だ。日本を戦争へと導いたのは軍国主義だったというのがその理屈である。
もっとも、では軍国主義以外にどんな道があったのかと問うと、多くは口をつぐんでしまう。だが、なかには勝ち誇ったようにこう答える者もいる。「小日本主義」を知らないのか、とーー。
小日本主義というのは、戦前の自由主義者として知られたジャーナリスト石橋湛山が唱えた政策で、台湾や朝鮮、さらに満州などの植民地は不要であり、それらがなくとも自由貿易で日本は十分やっていけるという考え方だ。要は「植民地不要論」である。
しかし、少し歴史をかじった人なら知っているように、大恐慌後における世界経済のブロック化という現実を前に、この小日本主義は急速に説得力を失っていく。そうして軍国主義に代わる有効な代替案にはなりえなかったのが現実である。
なぜ有効な代替案になりえなかったのか? 現実を無視した机上の空論にすぎなかったからである。今風にいえば、お花畑思想だったからである。
ということで以下、石橋湛山ら当時の自由主義者の思想の変遷を検証した『自由主義は戦争を止められるのか』(上田美和著)という本を参考に、その「お花畑ぶり」を追ってみよう。
変節する小日本主義者
まず第一次世界大戦直後の1921年における石橋の主張である。大戦後の国際秩序を協議する目的で開かれたワシントン会議に臨む日本代表に当てて、石橋はこう主張した。
「朝鮮・台湾・満洲を棄てる、支那から手を引く、樺太も、シベリアもいらない」(「一切を棄つるの覚悟」1921年7月23日)
ここにあるのは小日本主義の原型ともいえる完全な植民地不要論である。植民地を放棄しても自由貿易で日本は十分やっていけるという主張である。
しかし、その後、主張はしだいにブレを見せるようになる。
最初の大きなきっけかけとなったのは、1929年、ニューヨークウオール街で起こった大暴落である。いわゆる世界大恐慌だ。そしてそれを契機に世界はしだいにブロック化の様相を強めていく。
ブロック経済というのは、ブロック内の国々に対して特恵関税を敷くと同時にブロック外の国に対して高関税など貿易上の障壁をはりめぐらすことで域内の利益を守ろうとする政策のことである。
たとえばイギリスはオーストラリア、インド、マラヤなどを含むイギリス連邦を中心にスターリングブロックを形成した。またアメリカは南北アメリカ大陸を中心にドルブロックを、さらにフランスは金本位制を維持したまま、西ヨーロッパを中心に金ブロックを形成した。
石橋は当初、これに激しくかみついた。自由貿易が持論である以上、当然であっただろう。だが、日本の一介のジャーナリストがいくら吠えたところで、世界の趨勢を変えることはできない。石橋の思いとは裏腹に世界はますますブロック経済化へと突き進んでいく。
その頃、欧米のブロック経済に対抗して日本でも「日満ブロック経済構想」が喧伝されるようになっていたが、石橋は当然ながらこれにも反対した。
「満蒙だけを相手にして我が経済が営まるるであろうなどとは、到底考ええない」というのである。
同時にこの頃から石橋は列強に対しても批判の矛先を向けるようになる。「関税障壁や門戸閉鎖は経済的な侵略である。列強が中国の門戸開放を求めるならば、インド・フィリピン・南米も門戸開放するべきだ」(同書p167)と主張したのである。
また注目すべきなのは、それまで反植民地主義の立場から同情的だった中国に対しても批判の矛先を向けるようになったことだ。ソース元となる本でその部分を特定するのは難しいのだが、要は「隣りに困った人がいてはこちらもしかるべき処置をせざるをえない」という主張に変わってきたのである。
ここには、弱者に対する擁護論の根拠となった独立自主を重んずる立場が反転して、逆に「独立自主ができない」弱者の自己責任を追求するところへと強調点が移っているのがみてとれる。
またその後、満州国が成立すると、当初こそ批判的だったが、しだいに容認するような見解を発表するようになる。
「熱河を合わせて所謂東四省を満洲国の為めに確保し得さえすれば、我国は其以上に支那領土に侵入する如き意思は毫頭ない。(中略)我国は、満州国の擁立だけは飽くまでも頑張る、為めに連盟も脱退するが、其以外に於いては(中略)戦は好まない」。
こうも言っている。
「我が植民地とは何処どこか、或は台湾、朝鮮及び樺太が挙げられるであろう。けれども此等の地方は、実際に於いて今は植民地と云うよりは、少なくとも貿易に就いては我が本土の一部と見るのが適当だ」
ここで石橋は、台湾、朝鮮、樺太が日本の植民地ではなく、本土であると言っている。これは植民地容認論であり、当初の小日本主義からすれば間違いなく後退である。変節といってもよいであろう。
さらに1937年、日中戦争が始まると石橋は、門戸開放の立場から中国市場を世界に「寛大に分ち」英米とともに経済開発することを主張した。
しかしそれは同時に日本による華北支配を容認するものであることは明らかであろう。
「蒋介石政府が何時までも屈服せずに長く抗戦を続けることこそ、我国に取っては利益である。何となれば彼が左様の態度を取る限り、我が国は彼に関せず、思うが儘に北支を経営し、その開発を図り得るからだ」
もちろん石橋がこう言ったのは経済的な進出という意味であって、軍事的なものを意味したわけではないだろう。しかし、戦時においては経済支配と軍事支配は分ちがたく結びついている、結果的に石橋が日本の軍事進出を容認する形になったのは理の当然といえるだろう。
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