【練塾ダイジェスト】内藤希哲の世界
前回の中国と日本の漢方医学の歴史から、ついに本題である内藤希哲について触れたいと思います。内藤希哲は歴史に埋もれた人物であり、この人物を発掘したのが昭和の大家である大塚敬節でした。『近世漢方医学書集成』というシリーズでは、大塚先生の弟子である寺師睦宗が内藤希哲の解説を担当しています。寺師先生も興味深い方で、自伝である『漢方への情熱』もお勧めです。
寺師先生は解説のために、内藤希哲の生まれた信州に足を運びました。そこで、お寺を訪れたり、地元の方々から話を伺ったりしたそうです。
寺師先生が注目したのは、内藤希哲の交友関係でした。江戸時代の代表的な儒学者である荻生徂徠の後継者と言われた、太宰春台と希哲は親交を持っていました。荻生徂徠は古文辞学派に属しており、当時の盛んだった朱子学などの学派を批判し、中国の古典に基づいて研究する必要性を唱えていました。
これは分野こそ異なりますが、内藤希哲の主張と似ています。希哲は五経一貫の考えを持ち、『内経』や『難経』の理論に基づいて『傷寒論』を解釈していました。当時の日本の医者は宋代や金元などの中国の医学を学び、抽象的な議論に拘泥する傾向がありました。その中で、希哲は彼らを批判しました。そのため、希哲が自分と近しいと太宰春台は感じ、親交を育めたのではないかと寺師先生は考えています。
内藤希哲と同時期に活躍し、日本の漢方界で知られる人物が吉益東洞です。吉益東洞は希哲の生まれた次の年に生まれます。彼は陰陽五行説を否定したうえで、『傷寒論』を重視するという立場を取っていました。
また、彼の提唱した万病一読説は、病の原因は全て毒であり、その毒が体のどこにあるかによって病態が変わるだけであるというものでした。薬も毒と見なし、毒を以て毒を制するという考え方で注目を集めました。このエキセントリックな彼の主張は当時の漢方界を席巻しました。
内藤希哲と吉益東洞は、『傷寒論』を重視する点では共通していますが、『内経』などの古典医学理論に対する考え方は大きく異なります。希哲が若くして亡くならなければ、日本の漢方医学の歴史は異なっていた可能性がありますが、歴史とはそういうものです。
私は病理を重視する姿勢や、『内経』の古典医学理論を用いて『傷寒論』を解釈する希哲の考えを理解したいです。そのためにも、希哲の弟子たちが残した『医経解惑論』や『傷寒雑病論類編』を研究したいと思っています。
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