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社会人の礼儀作法 (1)-礼
礼儀作法-先ずは『礼』を知る
🎌成人の日の今日顧みる「礼と法」
現代社会は、
個々人の主体的自覚とされるマナーを
表す『礼』が疎かになっているのでは?
と感じられることが多く体験、見聞きします。
例えば、デジタル上で
先達・先人(高齢者)への敬意と節度の
無い言葉の使い方(タメ口)や利己的で
自己中の無礼な行為である既読スルー
や無視と言った行為態度が当たり前の
SNSなどのツールが広まっています。
リアルな場合相手を言動を無視する
態度だったり学びや教えを受ける人に
対し「参考にします」と平気で話したり
喪中なのに「新年おめでとうございます」
と言った心無い挨拶を平気で使ったり、
自分の知らない物事の捉え方や対処法を
などを教えて貰っても、その経過報告で
ある中間報告がされなかったりしています。
このようなことを成さない社会人(大人=成人)
が年々増えて来ていると思われます。
即ち、
利己的な考えで、人としての『礼』
を尽くさずとも社会で生きていられる、
と自分の都合や意識で安易に考える人
が意外と多いのではないでしょうか❓
少しでも多くの人達に、
人として大切な『礼』の本質を知り
理解し自覚して頂きたいのです。
★以下、孔子の論語の一部と
「学びのメモ」から転記します。
📖思いやりを表すマナーの心『礼』、 社会生活のルール「法」
孔子自身は、礼は士のもので庶人には
とても修得が無理とあきらめていた。
詰り、礼を基準として生きる者は
マナー(思いやり・礼)を備えており、
法(ルール・罰)は不要であり、
そうでない庶人には「法」(=ルール・罰)
は必要であると考えていたとされる。
なぜなら、『礼』とは
衣食足りて礼節を知ると言うことの
意であり、その衣食を足らせるのに
精一杯の人々に礼を要求するのは
無理であると考え、それらの人達へは
「法」を作り、それに違反しないと共に、
他人に心身の迷惑をかけなければよし
としました。ところが現実として庶民も
衣食が足りてくると『礼』を求める。
即ち、自分を洗練させたくなる。
(≒人間らしくする。
上流階級の真似をしたくなる)
実は、古く中国で二千年前のマナーと
ルールの対立は、漢字になおすとすれば
「礼と法」の対立であったとされる。
★「学びのメモ」から転記終り。
現代の社会生活でのコンプライアンス無視
モラル欠如はこの「法」に反することであり
マナー違反は、調和を乱すと思われます。
🔳法(ルール・罰)
※(私見)
国政にもこの法の遵守、モラル欠如
コンプライアンス無視が問われている。
★以下「学びのメモ」から転記。
法(ルール)は、
万人に例外なく適応され違反は許されない。
時と場合・人の違いには忖度せず、
一律が「法」の精神である。
未成年や心神喪失、先天性病と言う
例外以外は、法を破る者は悪人とされ
何らかの制裁を受けても仕方ない。
逆に法に違反していなければ
自分の振る舞いに何らかの文句を
言われる筋合いはないとされる。
それに対し『礼』は、
時と場と人に応じた最善の所作
を考えなければならない。
「時宜によるべし、人によるべし」
これが礼の極意である。
状況でのベストを思考すること
であるからこそ丸暗記は通用しない。
また「法」は権力によって制定され、
執行される。個人が法である道交法に
どんなに文句を言っても無理である。
礼は、一部の人間が提唱し、
社会全体がそれを徐々に
受けいれることで承認される。
(礼を身につけない人は法を
破る人よりはるかに多い)
★以上、転記終わり
今流に言うと「礼儀」は
「マナー」と「モラル」
に該当すると考えられ、
「法」は、
「ルール・規律・コンプライアンス・作法」
と受止めて良い思われる。
(注)礼節と礼儀は異なると受止め受止める。