下谷(したや)神社(台東区東上野)で神輿を担いでみた【神輿担ぎ入門】 2024/05/12開始
今日、2024/05/12に、下谷(したや)神社(台東区東上野)の神輿を担いだ。
山の手は農家が多いので、神社の祭礼は、秋に収穫祭として行われているが、下町では町人の夕涼みを兼ねて夏に開かれる祭がほとんど。
5月中旬の下谷神社に始まり、神田明神、浅草神社、鳥越神社、山王日枝神社、富岡八幡と下町の主要神社の例大祭は、すべて8月までに完了する。
本社みこし(本社神輿)は神社が所有するみこしで、町みこし(町神輿)は氏子の町会が所有するみこしだ。
町みこしは、「大神輿」とも呼ばれるので、覚えておこう。神社の祭礼の日程表を解読する際に使える知識だ。
最大の見せ場は、「本社みこし」が町に出る「本社渡御」(ほんしゃとぎょ)と、町みこしが神社に出向く「宮入り」だ。
ただ、本社みこし(下谷神社祭礼であれば、町みこしではなく、下谷神社が所有する本社みこし)を、下谷神社に戻すことを「宮入り」と言う場合があるので、注意しよう。
また、「町会」と「睦会」(むつみかい)の関係をおさえておくのが重要だ。
町会は、睦会で構成されている。また、睦会は、別の町会で行われている祭礼に参加することもある。
下谷神社の祭のウリは、「お化けみこし」と言われる大みこしだ。
「本社みこし」は、許可証としての「背中に「睦」の文字が入った地元町会青年部の半天」を着ないと、担ぐことができない。
下谷神社について、簡単に見ておこう。
今回のお祭りは、例大祭と呼ばれるものだ。
祭神と配祀祭神とは何が違うのだろうか?
異なる世界線が数日だけ訪れる、そんな感覚だ。現実世界のレイヤーに、祭り世界のレイヤーが重なっている、そんなニュアンスだ。
気付く人は気付くが、気付かない人は気付かない。
様式美があり、様式美の枠の中で、遊びがある、男臭さがある。
男臭さって、どこから感じるのだろうか?
男らしさ、女らしさとは何が起源なのだろうか?
チームプレーについて考えさせられる。
神輿を担ぐことも貢献だが、周りで声や手拍子で応援することも貢献だ。誰が神輿を担ぎ、誰が神輿を担がないかをマネジメントすることも貢献である。
一人一人の状況を把握する人・機能の不在を発見した。
現実は、「一人一人の状況を把握する人・機能」がいないことが多いのかもしれない。
その場合、声をあげないと、しんどくなる。相手を信じて、声をあげよう。
「はたらく」と「神輿担ぎ」の共通点
神輿という名の中空のものを運ぶことにも面白みを感じる。
事業会社で働くことは、中空のものを運んでいるのに近いのかもしれない。
中空のものではなく、実効性のあるものだと信じながら、いや、実効性のあるものだと(無意識に)信じ込もうとして人は生きている。
そんなことも、神輿担ぎから感じることができる。
「神輿」と「ロランバルトの中空性」
ロランバルトの著作を思い出した。
ロランバルトは、日本にあるモノの中空性に着目した哲学者だ。
ロランバルトの中空性の発見については、とても感銘を受けたが、そこからどんな示唆が生まれるのかを、私は読み取れていなかった。
昔、車椅子がない時代に、歩けない人たちは、簡単には神社にお参りに行けなかった。年に一回だけ、ポータブル・シュラインが町中を練り歩き、様々な住人にお参りの機会を提供する、そんな意味もある。
神輿を揺らしたり、神輿を天に上げることは、神を招くことを意味している。
「犠牲・苦痛」と「神輿担ぎ」
神輿を担いだときに右肩に残る痕跡は、神輿の行事や仲間との体験を、記憶に留まりやすくさせる効果がある。あえて、人体を損傷させることが、人を信じさせることに効果がある。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書に記載がある。
21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考 単行本 – 2019/11/19
ユヴァル・ノア・ハラリ (著), 柴田裕之 (翻訳)
5つ星のうち4.4
1,210個の評価
声を出し、しかも、集団で同じ発声を行い、同じリズムの拍手をする行為は、今・ここに意識を集中させ、一つのことに没頭させる効果がある。身体が疲れ、さらに神輿の担ぎ手が他におらず交代できない状態になると、今・ここに集中しないと、神輿が地面に落っこちてしまう恐怖が生まれ、さらに今・ここに集中しなくてはいけない。結果的に、瞑想に近い体験になり、瞑想と同じような効果が生まれる。
時間という資源は失われ、中空で虚構の物体をA地点からB地点を経由してA地点に戻すという表層的には無意味な行為を行い、そして、体力を消耗し、肩が破壊される。それらがユヴァル・ノア・ハラリの言う「犠牲」となる。
意識が朦朧とし、精神が落ち込むが、周りから発せられる声、拍子、そして、輝く空を見つめているうちに、沸々と元気とガッツが生まれてくる。
仮に悩みがあったとしても、神輿を担いだ直後は、頭がすっきりし、執着が激減する効果もありそうだ。
いわゆる「フェス」は、何のために行くのだろうか?
興奮体験、没頭体験を手に入れるために行くというのであれば、祭りは、フェスよりもフェス的だ。
神輿を担ぐことを、科学的に解明した論文はないのだろうか?
祭りの文化人類学。
そして、祭りについて、進化心理学の観点から知りたい。
「伝統の継承」という祭りの機能
睦会の元会長がこんな話をしてくれた。
伊勢神宮は生まれるところで、その北西にある出雲大社は死んでしまうところであると。
浅草の三社祭の「三社」とは、三つの神社のことではなく、二人の漁師と一人のお坊さんによって作られた神社という意味だそうだ。つまり、三つの神社が集まって開かれるものではない。
祭りの機能の一つに、「伝統の継承」があると気付かされた。
以上
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