#悪の華(コミック) 面白かった作品を勝手に紹介!
※もし僕が本の裏表紙にある「内容紹介」を勝手に書いたら?
という企画です
この作品は毒矢のように突き刺さって、僕の心を侵し始めた。ぐちょぐちょでどろどろな僕の"ヘンタイ"が暴れ出した。
この作品を読み始めたら、本当にページをめくる手が止められなかった。全11巻のこの作品をわずか一晩で読んでしまった。
僕は読んでる間に何を感じたかと言えば、それは感動とノスタルジーとそして怒りだ。かつての、焼けるように盛った教育に対する鬱憤をふと思い出した。
教育、学校の本質は人間を社会の部品に変えることであり、人間性の否定を含む。じわじわとやすりで削られていくような感覚に僕は漠然とした違和感を覚えて、ついにはあるきっかけで高校を辞めるに至った。
この物語に出てくる"仲村"と"春日"の二人は、同様の違和感を感じていたと思う。そして、山に囲まれた田舎町で、その"向こう側"に希望を見出して闘った。
そんな二人を、社会は"変態"と呼んだ。
本家の内容紹介
罪とは、なんだろう。この物語は"罪悪感"というテーマを取り扱う。
一般的に、罪悪感は、社会のルール(明文化された法律のようなルールや、マナーのような暗黙のルール)を犯した時に発生する。周囲の人間はルールの違反者に対して「謝れ」「一生をかけて償え」そのような言葉を投げかける。
逆に言えば、社会のルールで規定されていないならば、そこに罪悪感は感じない。例えば、今では日本が太平洋戦争をしたこと自体に罪悪感を感じるはずであるが、戦中の日本という社会の中ではそれは正義であり、ルールで禁止されていなかった。だから国民の多くは、罪悪感を抱えずに玉砕していった。
つまり、罪悪感の発生条件は社会が決める。僕でも、貴方でもない、いやむしろ僕でも貴方でもあると言ったほうが正しいか。
そこに僕は悔しさを感じるわけである。自分で操作できないモノに振り回される感覚だ。ハッキリ言ってむかつく。
罪悪感とは、心の中の人間とオトナの葛藤だと思う。葛藤に際して生じる血と炎と傷跡の叫び声だと思う。
人間は、教育されて加工されて"オトナ"になる。アリストテレスかつて人間のことを「社会的動物」と言ったが、これは人間ではなく"オトナ"のことであろう。地球に生まれた赤ん坊に社会性など皆無であり、そこには純粋な「個性的人間」がいるだけだ。
社会の規範を犯して"罪悪感"を感じる。この時、「社会的動物たち」の声が他人の声を通じて耳に届き、本来の心に巣食う「個性的人間」が本能や欲望として葛藤に参戦する。
"オトナ"になるというのは、心のなかの「個性的人間」を「社会的動物」の統制下に置き、妥協し、その範囲の中で贅沢するということである。
ここには、闘争も悲劇も存在しないので、多くの人々は安寧を求めて、社会に適応することを選ぶ。
枠の中の自由を選んで、"普通"になる。
だからみんなキモチワルイとか、そういうことを言いたいわけではない。構造の話をした。そして当然、そこに違和感を感じる人もいるだろうということだ。”仲村”と"春日"はこの葛藤にひどく混乱し、違和感を感じて暴走したのだ。
罪悪感という言葉の中に、こういう構造が隠れ潜んでいる。
思春期というのはまさに"人間"と"オトナ"の転換期であり、学生たちの思春期を描いた漫画「悪の華」にこのテーマが広く描かれるのはひどく首肯できる。