【一般社団法人つなげる30人・理事インタビュー】第2回・野村恭彦「つなげる30人」がメインストリームになれば、世の中は変えられる
前回に続き、一般社団法人「つなげる30人」の理事インタビューをお届けします。第2回は代表理事である加生健太朗とともに「渋谷をつなげる30人」のスキームを作り上げた当事者であり、一般社団法人では理事を務める野村恭彦に、これまでの活動の歩みや、目指すべき方向性などを聞きました。
●「知」の研究者としてキャリアをスタート
——まずは、これまでのキャリアを振り返っていただけますか。
富士ゼロックスに20年間勤めていました。元々、グループウェアの研究をやりたかったため、最初は研究所に在籍して、働きながら博士号を取るようなワークスタイルでした。
当時、野中郁次郎先生(一橋大学名誉教授)が提唱していた「知識創造企業」をゼロックスで取り入れよう、ドキュメントカンパニーからナレッジカンパニーになろうといった大方針の下、僕はそれに関連する研究と事業開発に従事していました。
野中先生と交流する機会も多く、ナレッジマネジメントや知識創造型の経営を社内で実践したり、外部にコンサルティングしたりすることに加えて、この分野に米国のゼロックスが力を入れていたため、何度も出張して協業する機会にも恵まれました。
その後、ナレッジサービスの新規事業を立ち上げました。僕自身それが本当の意味で、初めてのビジネスとの関わりでした。
在職中は、知識や経営、組織を研究しながら、それをサービスとして提供していくという、非常に高度なビジネスを学びましたし、経営幹部のスピーチライターをさせてもらったことで、僕にとっては目線を上げる良い機会をいただきました。
——そこからなぜ起業したのでしょうか?
東日本大震災がきっかけでした。2011年にクライアントと一緒に石巻(宮城県)へ行くと、地域の人たちが「せっかく街がリセットされたんだから、次は俺たちの時代だ!」と熱く語っているわけです。しかも泥掃除などをしながら。それを聞いて、「ああ、こういう現場を知らずにイノベーションなどと叫んでいても駄目なんだな」と痛感しました。
画期的な商品を生み出すのがイノベーションだと思って長年やってきましたが、もっと社会の仕組みそのものを作っていくフィールドに出ていかねばと思い、ゼロックスを辞めて、フューチャーセッションズという会社を立ち上げました。
——被災地を回った時が、野村さんにとって初めての地域社会との接点だったのでしょうか?
ゼロックス時代も、企業の新規事業のために住民と社会課題を話し合う場をつくる仕事をしていました。その時にNPOの活動現場などにも足を運んでいました。
ただし、職務上、内容に応じてNPO側に立つか、クライアントである企業側に立つかのどちらかで、フラットな立場ではありませんでした。だからこそ、ニュートラルなポジションに立ちたいと思ってフューチャーセッションズを設立したわけです。
でも、起業しても多くの案件は大手企業の未来を探索するようなプロジェクトでした。一つ一つの中身は面白いけど、僕が東北で目の当たりにした現場感のあるものとは違いました。
ちょうどその頃、C・オットー・シャーマー氏著の「出現する未来から導く」の中で提唱されていた「社会4.0」(パブリックセクター・プライベートセクター・ソーシャルセクターの融合した社会)という考えを知り、「こういうことをやりたいんだよな」と思っていたタイミングで、加生さんと再会しました。そこから「渋谷をつなげる30人」の原型となるアイデアを一緒に練り上げていきました。
最初は「渋谷4.0」プロジェクトと呼んでいたんです。ただ当時、インターンでデザインを担当してくれていた筑波大学の学生で、つなげる30人のロゴを作ってくれた人なんですが、「渋谷4.0だと分かりにくくて、おばあちゃんに説明できない」と言ってくれたことがきっかけで、渋谷に同級生を作る感じのコンセプトを表すために、「渋谷をつなげる30人」という名称が生まれました。
●つなげる30人を社会のメインストリームに
——「渋谷をつなげる30人」を立ち上げた動機について、もう少し具体的に教えてください。
当時は家と会社の往復だけの生活が非常に貧しいと感じていて、サードプレイスがあったらいいなという思いがありました。
実際、「渋谷をつなげる30人」を始めてから、ここ(cafe 1886 at Bosch)で仕事をしていると、顔見知りと出会う機会が増え、すごく楽しくなりました。「つなげる30人」の原型は、皆でプロジェクトを生み出すプログラムというよりは、先ほど言ったように、仲間を作るための同窓会に近いです。つながって、この街のことを一緒に考える仲間を持とうよと。僕が当初から言っていたのは、困った時に気軽に相談できる相手が、地域内のさまざまな組織にいたらどんなにすごいかということです。
—— 皆がつながることの利点とは何でしょうか?
つなげる30人の取り組みを全国あるいは世界中に広げたいと思うのは、いろいろな街へ行ったときに、どこに行っても仲間が30人もいると嬉しいから。僕にとっては、そんなピュアなモチベーションなのです。
社会課題に対しても楽観的に考えています。今の世の中の仕組みでイノベーションを起こさねばならないというスタンスではなく、「つなげる30人」に理解を示す、僕らみたいな人が社会のメインストリームになれば、自ずと社会は良くなるに違いないと思います。
僕らみたいな人というのは、自分のことではなく、皆の利益を真っ先に考えて行動できる人。僕自身はそういった人たちと社会のメインストリームを取りたい。だからこの活動をやっているのです。30人の中から議員が出るのも嬉しいし、首長が仲間になるのも嬉しい。企業の変革者みたいな役員が味方してくれると、本当に世の中を変えられると信じています。
今はルールがどんどん変わっていく時代ですが、従来の縦割り型組織で行動を起こすのは難しい。でも、さまざまなステークホルダーが最初から友達だったら、街で変化を起こそうとした時に、実現しやすい状態だと思うのです。
—— 野村さんは社会変革をしたいのですか? 世の中をどうしたいのでしょうか?
都市というレベルで、イノベーションを起こせる仲間がいることを前提に、政策を作りたいんですよ。僕は京都市で市民協働ファシリテーターを育てる仕事をしていますが、それと30人を組み合わせたまちづくりが、ライフワークに近い仕事。市民協働を仕掛けられる職員を増やして、市民協働できるテーマを増やして、つなげる30人に参加してもらう。市民協働という意味での行政の改革と、市民協働の質を高めていく30人。行政と市民がお互い刺激し合いながら、街が進化していく状態を作りたい。
僕は、クロスセクターの善意の関係が、社会のメインストリームになるという世界を見たいだけですね。そのためには素晴らしい首長を擁立して、行政のようなハブが協働する組織になっていることと、町の中にたくさんのつながりがあることが必要。これらがそろった時に、「何かおかしいけどしょうがないな……」と諦めていた、そんな社会の課題がすべてひっくり返ると思っています。
●夢を叶えた広島の30人
—— これまでのつなげる30人の活動を通じて、最大の成果は何ですか?
僕自身は、それぞれの街に「つなげる30人」という発想を植え付けていくことをやっているだけで、成果を出しているのはそこに集まった人たちです。
例えば、「ひろしまをつなげる30人」のメンバーが、毎年広島に届けられる大量の折り鶴をアップサイクルして、和傘を作り、G7広島サミットで首脳に渡すという企画を出しました。
昨年それを聞いた時は、夢はいいけど難しいだろうと思っていたら、本当に渡せたみたいです。使われたのは配偶者プログラムで、各国首脳の配偶者の皆さんが、この和傘をさして記念撮影した写真が送られてきました。
それが成果なのかはわからないけど、誰かが夢見たことがちゃんと実現しているのはすごいですよね。そういうことが生まれるから「つなげる30人」が素晴らしいのではなくて、そういうことが起きたらいいなと思っている人が、30人という枠組みがあることで行動できるというのが大切だと感じています。
●地域を超えてつながるための方法論を作りたい
—— このたび一般社団法人を作りました。その意義とは?
今まではそれぞれの地域がまったく別々に運営していました。一般社団法人化することでまとまるので、各地のプロジェクトリーダーが集まって話す場を作ることも可能です。誰もが地域を超えて気軽につながれる、関われるようにしたいと考えています。
—— 逆に今までつながれなかった理由は何ですか?
僕は京都と広島を担当しているので、双方の地域はがっつりとつながっていますよ。ただ、例えば、長野や横浜は加生さんが担当していたから、ある意味で、その4地域を一斉につなげるということは実現しませんでした。それぞれ別々にプロジェクトを進めていますし。
実際に地域を超えた横のつながりを作ろうとしたことはあるけど、大抵は一回きりで終わることが多いです。つながるにも方法論が必要だと思っています。
つながると盛り上がるのは間違いありません。「京都をつなげる30人」を立ち上げる時も、渋谷区の行政、企業、NPOの30人メンバーと一緒に乗り込んでいってイベントに登壇したところ、大盛況でした。でも、それっきりになってしまいました。今回、一般社団法人になることで、ぜひとも方法論を確立したいですね。