第4夜 日本船拿捕⁉️ イスラエルに宣戦布告⁉️ 謎の勢力フーシ派を日本一詳しく解説しちゃう
ハマスのイスラエル奇襲に続いて、今度はイスラエルがハマスの本拠地ガザに侵攻したと、世界は色々ときな臭くなってますね。
そんな中突如起こったのが日本郵船の船をイエメンのフーシ派なる連中が拿捕したというニュース。
しかもこのフーシ派、実はなんとハマスに連帯してイスラエルに宣戦布告をしていたりするんですね。
つまりその延長で起こったのが今回の事件なんですが、そもそも多くの日本人にとって、そもそもフーシ派って、お前誰だよ⁉️状態のはず。
実は私にとってイエメンは、ビザ3回も取ったにも関わらすなんだかんだでいまだに訪問できてない因縁の地。
その関係で以前フーシについては相当調べたことがあって、今回はその無駄知識を皆んなにも披露したいと思います。
これを読めばあなたもフーシ派博士間違いなし(誰もそんなものなりたくないと思いますが🤣)
☆ フーシ派はムハンマドの末裔だった⁉️ ☆
さて、このフーシ派については日本ではたまにイスラム教過激派という表現がされることがありますね。
とかく中東の話は宗教がらみなので、こう表現したくなるのもわかりますが、実は彼らはいわゆるイスラム原理主義とは何の関係ない人達なんです。
イエメン北部の山岳地帯にサアダという街があります。
現在フーシ派の本拠地と言われている街なのですが、首都のサヌアとこのサアダの中間にフースという小さな町があって、実はこの町の出身者のことを元々フーシと呼んでいたんですね。
つまりフーシ派とは、元々フース地方の出身者という意味なんです。
この田舎町の出身者がなぜ独自の勢力を築いているのかといえば、彼らの出自にそもそもの遠因があります。
何を隠そう、実は彼らはイスラム教の創始者ムハンマドの遠い遠い子孫の流れを汲む人たちと言われているのです。
イエメンは元々他のアラビア半島諸国と同様、アッバース朝の支配下にありました。
しかし9世紀頃にはアッバース朝の勢力はすっかり衰えてしまいイエメンは諸侯が乱立する騒然とした状況になっていました。
そんな最中の893年ムハンマド直系の子孫である、ヤヒャ・イブン・カシム・アル・ラッシーがメディナからイエメンにやってきたのです。
優れた法学者でもあったラッシーは、今までのスンニ派の教義を否定し、ムハンマドの孫であるアリーの直系の子孫のみがカリフの地位を継ぐ資格があるという説、即ちシーア派の考え方をイエメンに広めました。
ところがです!
実はラッシーの思想は、本来のシーア派とも大分異なったものだったのです。
一般のシーア派の考え方ではアリーの子孫のうち、第5代目にあたる後継者(イマーム)はムハンマド・バーキルとする考え方が一般的ですが(イランの国教12イマーム派など)、彼はザイド・ビン・アリーこそが第5代目のイマームだと考えたのです。
この為彼の思想を、5イマーム派、又はザイド派と呼びます。
そんな訳でザイド派は一般的なシーア派と思想上異なる点が多いばかりか、寧ろスンニ派に近い点が多かったこともあってか、北イエメンの諸部族の支持を得たヤヒャは、896年イマームを名乗ってアッバース朝から独立。
サアダを首都に定めラッシー朝を建国しました。
ラッシー朝はなんだかんだありながらも、1962年にエジプトの後ろ盾で起こったクーデターで最後の国王ムハマッドが追放されるまで、実に1000年以上北イエメンを支配することになりました。
ラッシー朝のイマームは当然ムハンマドの直系の子孫、ヤヒャの血統の中から選ばれた訳ですが、その中で一番有力な一族が、フース地方の豪族ハミード・アッ・ディーン家という人たち。
つまりフーシ派とは、単にフースの住民というだけではなく、ムハンマドの子孫の末裔である王族(イマーム)に連なる一族という側面を持っている訳なんですね。
☆ 繰り返されるフーシ派の反乱 ☆
さてエジプトの介入でラッシー朝が滅びた後、イエメンは共和派と旧王統派の内戦が続いていたのですが、1978年、この内戦を制したアリー・アブドラ・サーレハが大統領となりました。
サーレハにとって悩みの種の一つが、このフーシ派の扱いです。
元々王族に連なるフーシ派は内戦時は当然王統派に属していた訳ですが、当時イエメンは南北に分裂しており、南イエメンや、隣国サウジアラビアの支援を受けた反体制派組織イスラーフの脅威を受けていました。
そこでサーレハはフーシにある程度の自治権を認めて懐柔することにし、その間独裁体制を固めていくことにしたのです。
こうして力をつけたサーレハは1990年、ついに宿敵南イエメンを併合して、南北イエメンの統一に成功し、初代大統領となることができました。
しかし、そうなると今度は当然旧王党派のフーシ派はサーレハには邪魔者となります。
こうしてサーレハは一転してフーシの弾圧に乗り出すことになったのです。
これに反発したフーシー派は、2006年4月、フセイン・バドルッディーン・フーシ(因みにこの辺りの人はみんなフーシという苗字を持っているのです)という人をリーダーに一転して中央政府に反旗を翻します。
この反乱は失敗に終わり、フセインは政府軍の攻撃で戦死してしまったのですが、フーシの方も諦めず、反乱はフセインの兄弟たちに引き継がれ、断続的に6回に渡り続きます。
フーシの反乱は時に連れて大きくなり、特に2008年の反乱では、一時フーシ派軍が首都サヌアの北25キロにまで迫って、政府軍を慌てさせるほどでした。
フーシの反乱がこのような大ごとになったのは、実はイエメンに古くからある部族の対立構造にも原因があります。
イエメン北部は昔からハーシド部族連合とラキード部族連合という二大部族があり、事あるごとに対立していました。
フーシの反乱に際して、ハーシド部族連合が政府側につけば、一方でラキード部族連合がフーシ側に加勢するといった感じで、部族社会のイエメンにあって、政府軍としても簡単にフーシだけを武力で制圧すれば済むというわけにはいかなったようなのです。
2009年6月、フーシは6回目の蜂起を行います。
この時は何を血迷ったのかフーシ派は湾岸戦争でアメリカに協力したサウジアラビアを膺懲するとして、なんと国境を越えサウジに攻め込んだのです。
この攻撃に対するサウジの反撃は彼らの予想以上のもので、地上戦はもとより、本拠地のサアダもサウジの空爆を受けるなどフーシ派は大打撃をうけ、2010年2月には停戦に応じざるを得なくなりました。
これでさしものフーシも大人しくなると誰もが考えました。
☆ サーレハ元大統領の暗躍 ☆
ところがここで事態が一変します。
チュニジアで始まったアラブの春がイエメンにも押し寄せ、30年以上独裁を続けてきたサーレハ政権にも国内外の批判が集中するようになったのです。
サーレハは言を左右してなんとか政権に居座ろうと四苦八苦したのですが、各部族が反政府側に寝返った挙句、自身も大統領宮殿への砲撃で重傷を負ってしまい、仕方なく副大統領だったアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに大統領職を譲ることにしたのです。
ハーディーは元々南イエメンの出身でしたが、政争に敗れ北イエメンに亡命、その後統一後初の副大統領だったアリー・サーリム・アルビードが南北再分離を求めて反乱を起こしたとき、北イエメン側について国防大臣を務めた人物です。
宗教的にはスンニ派と思われますが、どちらかというと実直なテクノラートであり、サーレハが裏から操るには適当な人物だと踏んだ訳ですね。
ところが、サーレハの目算は大外れでした。
意外にもハーディーはサーレハの操り人形になることを拒否し、連邦制の導入を中心とする新憲法を制定、更に自らの任期を延長して権力を固める構えを見せたのです。
そんな訳で飼い犬に手を噛まれる形となったサーレハなんですが、ここに至り自らの復権の為に驚くべき策に出ます。
なんと仇敵のフーシと手を組むことを決めたのです。
新憲法の内容にはフーシも反対していました。
サーレハはまだ彼の影響力の強い軍部に、フーシに武器を引き渡し、首都に彼らの軍勢を招き入れる様命じたのです。
こうして2015年1月フーシの軍勢は、政府軍の反撃をほとんど受けることなく、サヌアに入城。
彼らはハーディー大統領を軟禁し、サヌアの主要官庁を占拠した上で、ハーディー大統領の辞任を要求したのでした。
さて、ここまではサーレハの目論見通りだったのですが、一方フーシの影響力が及ばない旧南イエメン地域では各地の部族がフーシの横暴に反発して兵を挙げたことで、イエメンは再び南北分裂の危機に陥いってしまったのは予想外だったに違いありません。
しかもこの様子を見たハーディー大統領がなんとフーシの監視の隙をついて南部に脱出。
2月23日旧南イエメンの首都アデンに入ったのです。
もちろんフーシも大人しく大統領の脱出を眺めていたわけではありません。
各地のイエメン正規軍を武装解除して、大量の武器を接収し、着々とその兵力を拡充していたのです。
更に彼らにはサーレハ以外にも別のスポンサーが現れていました。
それは同じシーア派の大国イランです。
☆ サウジアラビア 対 イラン ☆
実はフーシとイランが裏で手を結んでいるのではないかという噂は昔からありました。
しかし同じシーア派といえど、宗派的にはかなり異なることもあり、公式には否定され続けてきたのです。
しかしフーシの首都進軍が始まった矢先、どういうわけかアメリカは突然イエメンにいた海兵隊を引き上げてしまいます。
イランとの関係に考慮したものと思われますが、ともあれアメリカの介入がないと判断したイランは、ここに至り正面切ってフーシへの援助に踏み切ったのです。
一方こうしたイランの勢力拡大を快く思わない国がありました。
それはイエメンの隣国であり、スンニ派原理主義の総本山サウジアラビアです。
元々サウジはフーシとも一戦を交えた関係です。
そのサウジにとって柔らかい内腹が、よりによって宿敵シーア派の盟主イランの影響下、しかも仇敵のフーシーによって脅かされるなど絶対に許容できるものではありません。
しかし肝心のアメリカは最早頼りになりそうもなく、そのことをしてアメリカ抜きでの軍事介入をサウジに決意させたのでした。
3月26日、フーシ派軍がハーディー大統領派の本拠地、アデンの空港を陥落させ、アデン市内に侵攻しようとしたまさにその時、サウジによる軍事介入がはじまりました。
その規模は、大方の想像するよりはるかに大掛かりなもので、しかもサウジだけではなく10ヶ国もの主要なスンニ派諸国が揃って参加していたのです。
介入と同時にスンニ派連合軍の空軍機185機が一斉にイエメン各地を空爆。
更にサウジとエジプトのミサイルフリゲート艦隊がバブ・エル・マンデブ海峡を制圧しました。
また陸では15万のサウジ陸軍が国境に睨みを効かせ、スーダンなどから集められた多数の傭兵がアデンに向かい、フーシ派をアデンから追い払います。
更に勢いに乗ったハーディー大統領派は次々と南部の諸州を制圧。
この圧倒的な戦力を前に、誰もが今度こそフーシ派は終わりだろうと考えました。
☆ 泥沼化するイエメン内戦 ☆
しかし意外にも連合軍の進撃はここで呆気なく頓挫してしまいます。
それは肝心のハーディー大統領派が様々な勢力からなる寄せ集めに過ぎず、統一した目的も指揮系統もなく、それぞれが好き勝手に戦っていたに過ぎなかったからです。
しかも2017年にはアデン県知事だったアイドルース・アッ=ズバイディーという人がハーディー大統領と仲違いして新たに南部暫定評議会(STC)という組織を独自に立ち上げてしまいます。
その後STCは急速に勢力を伸ばし、2018年にはこともあろうにハーディー大統領派の本拠地アデンを占領するまでに拡大したのです。
実はSTCを陰から支援していたのは、連合軍の一員であったはずのUAEでした。
UAEはサウジの腰巾着になるつもりなどまるでなく、独自にイエメンに影響力を持とうという別の政治的思惑をもっていたのですね。
しかし一方のフーシ派の方も一枚岩ではありませんでした。
なんとフーシ派を首都に呼び込んだ張本人サーレハ前大統領が、今度はハーディー大統領派に寝返ろうと画策して、2017年12月フーシ派によって殺害されたのです。
こうして紛争当事者がバラバラになったイエメンの内戦は、誰が誰と戦っているのかよくわからない状態のまま、互いに相手に決定的な打撃を与えることもなく泥沼化し、2023年の今日まで延々と続くことになったのでした。
☆ サウジ石油施設への攻撃 ☆
さて、そんなフーシ派が国際社会の注目を一気に集めた事件がかつてあったことを覚えていますか?
2019年9月サウジアラビア東部州にあるアブカイクとフライスの石油精製施設がフーシ派の攻撃をうけ、一時サウジの半分の石油生産がストップするという大事件が起こったのです。
この時使われたのはフーシ派が所有する地対地巡航ミサイルQuds-1巡航ミサイル7機と自爆ドローンSammad3 18機の併せて25機。
もちろんフーシ派が独自にこんな兵器を開発できるはずなどなく、専門家によればその中身はイランが供与したスーマール巡航ミサイル、カセフ自爆ドローンだと考えられるそうです。
ただ大事なのは、中身はなんであれ、イエメンからはるばる1500キロも離れた場所を攻撃できる能力を、現実にフーシ派が持っているということ。
というかフーシ派は元々のイエメン軍の装備を全て接収しているので、元から100発以上のスカッドミサイルを持ってましたし(ただしほとんどはサウジの空爆で破壊された模様)、最近ではイランから供与された多数のブルカン1およびブルカンH2という新型ミサイルまで持っていたりするんですね。
つまり日本では単なるテロ組織扱いされているフーシ派ですが、実はその武力はハマスとかとは比較にならない一国家そのものだってことなんです。
実際フーシ派は10月19日、27日、31日の3回、巡航ミサイルとドローンではるか2000キロも離れたイスラエルを攻撃しようと試み、イスラエルのアロー3対空ミサイルとアメリカの駆逐艦のパトリオットで全弾が撃墜されています。
何気にやばくないですか、これ。
ということで、ダラダラと長いお話になっちゃいましたけど、フーシ派とその戦争についてそれなりに詳しくまとめてみました。
思わぬ形でイエメンの忘れられていた内戦にスポットライトが当たった今回の事件ですが、世界では今日も、平和な日本では想像もつかないような紛争が、日々行われているということを忘れてはいけないないと思うのです。
といったところで今宵のお話はここまで。
また第5夜でお会いしましょう。