見出し画像

第8夜 13日の金曜日の恐怖⁉️ 海賊の髑マークにもなったテンプル騎士団の呪い

突然ですけど、呪いってあるじゃないですか。
ホラーものだと貞子が出てくる呪いのビデオテープなんてのもありましたし、古くは平将門とか崇徳天皇の呪いとか聞いことがある人も多いと思いんじゃないでしょうか。
あと海外だとピラミッドの呪いなんていうのもありますよね。
そんな様々な呪いの中でも欧州で最も有名なのがテンプル騎士団の呪いと言われるもの。
この呪いが何が凄いって、実際にフランス王家を滅ぼしたり、13日の金曜日の元ネタになったり、果てはあの髑髏の下に骨が2つクロスしている海賊旗の由来だったりとともかく話題こと欠かさない存在なんですね。
では、なぜフランス王家は呪われたのか、そしてテンプル騎士団とは一体何者なんでしょうか?

☆  聖地を守れ!テンプル騎士団の誕生 ☆

そもそも始まりは1096年の第一回十字軍に遡ります。
この時十字軍は守備よくエルサレムを奪還しエルサレム王国を建国したのですが、いかんせん十字軍は各国の寄せ集めで常備軍がありませんでした。

そこで、1119年頃エルサレム神殿とその巡礼路を警護するため、フランスのシャンパーニュ伯領出身の騎士であったユーグ・ド・パイヤンと彼の親戚であるゴドフレー・ド・サンオメールを中心とした9人のフランスの修道騎士たちが集まってできたのがテンプル騎士団なのです。
因みにテンプル騎士団というのは俗称で、正しくはキリストとエルサレムのソロモン神殿の貧しき戦友たちと言います。

十字軍の兵士達はヨーロッパに帰国した為聖地防衛のために作られたのが宗教騎士団です

僅かな人数で始まったテンプル騎士団でしたが、彼らは後援者に恵まれていました。
当時影の教皇といわれたほど絶大な権力を握っていたクレルヴォー大司教のベルナディウスのとりなしで教皇ホノリウス2世によって正式に宗教騎士団と認められるや、多くのヨーロッパ諸侯の寄進や支援を受けることとなり、1139年にはローマ教皇イノケンティウス2世から国境通過の自由、課税の禁止の特権を得たばかりか、ローマ教皇以外には従う必要がないという政治的な特権も獲得したのです。

最も政治力だけでなく聖地防衛という強烈な宗教心を持ち、厳しい訓練を積んだテンプル騎士団は実際戦争でもかなり強かったのも事実。
第二回十字軍で大活躍しただけでなく、1177年にはモンジザールの戦いでアラブの英雄サラディンの軍を散々に打ち破るなど華々しい戦果をあげています。

モンジザールの戦いでテンプル騎士団は寡兵ながらアラブの英雄サラディンを破りました

そしてその名声に引かれて各地の貴族や国王などの寄進が相次いだのです。

☆ 世界初の国際銀行となったテンプル騎士団 ☆

しかし清貧な修道騎士たちの集まりだったテンプル騎士団が巨万の富を誇る一大軍事組織に変貌して行くにつれ、テンプル騎士団の性格は大きく変わっていくことになります。

当時テンプル騎士団は十字軍の遠征や巡礼行く人々の資産を預かり、預託証書を発行していました。
人々はこの預託証書を目的地のテンプル騎士団拠点に持っていくことで、いつでも払い出しが受けることができました。
要するに一種の預金通帳のようなものだった訳ですね。
もっとも決して銀行のようなものだった訳ではなく、当初は聖地奪還や巡礼の際、治安の悪い往路で、騎士や巡礼者の財産を守る奉仕の一環でした。

なのですが、実際には預託証書はテンプル騎士団が同額の支払いを保障していましたから、彼らの預託証書という紙切れは、実は金貨や銀貨と同様の価値を持っていることになります。
しかもその国でしか使えない金貨や銀貨と違って、テンプル騎士団の預託証書はイギリスからシリアにまで広がっていた騎士団の拠点すべてで両替して換金することが可能ですから使い勝手抜群。
つまり実はテンプル騎士団は意図せずして、ヨーロッパ史上初の共通紙幣を発明していた訳なんです。

又当時の十字軍や巡礼の途中で命を落とすことは決して珍しいことではありませんでした。
そこで人々は出征や巡礼の前に財産をテンプル騎士団に預け、もし万が一があったときは遺言に従って相続人に財産を分与することを依頼するようになります。
例えば第三回十字軍に参戦したフランス王フィリップ2世などは遺言の執行人にテンプル騎士団の財務官を指名し、出征中の王家の税収をすべてテンプル騎士団の金庫に預託するよう指示しています。

すなわちテンプル騎士団は現代の信託銀行の生みの親ともなっていたのです。

こうして事実上の通貨発行に加え信託の機能を持ったことは、清貧な修道騎士団だったテンプル騎士団を巨大金融機関へと変貌させる決定的なきっかけになりました。
単なる預託、両替業務と違って信託は払い出しがいつ行われるかわかりません。
逆に言えば常に払い出し分の通貨を保有しておく必要がなくなるわけです。
となると、現代の信託銀行と同様にその期間財産を運用する機会があることになります。

ここにいたり騎士団は中世のヨーロッパで決して触れてはならない、しかし近代の産業に絶対必要なあるタブーに手を染めることになりました。

そのタブーとは、貸金業で”利子”を取ることです。

原始キリスト教では元々”利子”は硬く禁じられていました。
しかし騎士団はイスラム教徒との聖戦の為のある種の寄付金のような形で、貸し金に利子を取ることをローマ教皇に認めさせてしまいます。

これは決定的なことでした。
利子を認めること、それはすなわち金融業そのものだったからです。
そしてまもなく彼らは更なる秘密に気がつくことになります。
それは仮に金や銀の現物がなくても、テンプル騎士団は信用が続く限り、事実上の国際紙幣となった預託証書を無限に発行できるということです。
そうです。
テンプル騎士団は13世紀にして現代にも通じる金融の秘密を知ってしまったのです。

馬一頭を二人で分け合うのは当初の清貧なテンプル騎士団の象徴でした。しかし後にこの紋章は同性愛の証拠としてテンプル騎士団壊滅の言いがかりに使われてしまいます

かくてテンプル騎士団はヨーロッパから中東に至る地域に、キプロス島全土をはじめとする広大な領地を持ち、多数の葡萄畑や農園を保有したばかりか、各国の王室や貴族に軍事資金を貸し出して膨大な利子を得、更にはフランスなど多くの王室や貴族の財産を信託管理する、さながら世界初の金融コンツェルンともいうべき存在になったのでした。

☆ テンプル騎士団の崩壊 ☆

しかしその繁栄の裏で、破滅の日は忍び寄っていました。
テンプル騎士団が尊敬と信頼を受けていたのは、聖地の奪回と巡礼者の保護という大義名分あってのことでした。
しかし十字軍の旗色はどんどん悪くなる一方、彼らはろくすっぽ戦いもせず、その志を忘れ蓄財ばかりに精を出すようになっていったのです。
グローバル化し王室の通貨発行権を脅かす存在となった騎士団は、当初の理念を失い、殖財にばかり熱を挙げる統制の利かない金融モンスターになっていたのです。

1307年10月13日 金曜日。
テンプル騎士団に多額の借金をしていたフランス王フィリップ4世は、ローマ教皇クレメンス5世と手を組み、異端信仰や男色などを理由に突如騎士団を急襲。
138人の主要メンバーを逮捕し、騎士団を壊滅させたのです。

しかしこれらの罪状はすべてでっち上げでした。
実は借金で首の回らなくなったフィリップ4世の狙いは、テンプル騎士団の豊富な財産を接収することだったのです。

1314年3月、騎士団長ジャック・ド・モレーは無実の罪を着せられ激しい拷問の末、生きたまま火炙りになりました。

生きたまま火炙りとなったジャック ド モレー

その時モレーはこう叫んだそうです。 『教皇クレメンスは30日のうちに、フィリップは1年以内に必ず神の法廷で裁いてやる!』

☆ テンプル騎士団の呪いとオカルトへの道 ☆

この日から不思議なことが次々と起こりました。
モレーの処刑からちょうど1ヶ月後の4月20日ローマ教皇クレメンス5世が急死したのです。
更に同年11月にはフィリップ4世が狩りの途中に突然の発作に襲われ死亡しました。
それでも不幸は止まらず、フィリップの親族は立て続けに死亡。
更に王位を継承したシャルル4世も若くし亡くなり後継者を失ったカペー家は断絶してしまいます。
こうして987年続いたカペー王朝は滅亡し、誰ともなくこの悲劇はテンプル騎士団の呪いなのだと噂するようになったのでした。
そしてタイトルの話になりますが、以後テンプル騎士団が壊滅させられた13日の金曜日は、不吉な日として忌み嫌われるようになったのです。

テンプル騎士団を処刑するフィリップ4世 その後ジャックドモレーの悪夢にうなされたといいます

さて実はこの話にはまだ続きがあります。
壊滅したテンプル騎士団の残党の多くはヨハネ騎士団へと吸収されることになったのですが、一部の人たちは海賊となりスコットランドに渡ったというのです。

その後彼らはモレーの墓を見つけ、その棺を開けました。
中にあったのは彼の髑髏とクロスされた2本の骨だったそうです。
古くからヨーロッパには2本の骨があれば復活できるという伝承があり、彼らはその復活を信じてこれをジョリーロジャーと呼ぶ旗にしました。
それが後に海賊の象徴として使われるようになったそうです。

ジョリーロージャー旗の起源は明確ではなく、一説にはテンプル騎士団が港湾都市シドンで骸旗を使用したことが後年テンプル騎士団の呪いと混同されたと言う話もあります。

またスコットランドに渡った彼らの一部は石工職人として身をたてることになりましたが、その組合が発展したものが後にフリーメイソンと呼ばれる秘密結社となったという言い伝えもあります。

なんかここで急にオカルトっぽい話になっちゃいましたが、要するにテンプル騎士団の呪いがあまりにも強烈な印象だったため、その後様々なオカルトや陰謀論に結び付けられて行ったということなんですね。

さてそれはともあれ、お金に塗れたテンプル騎士団とフランス王朝は、その双方の滅亡で幕を閉じました。
もし彼らに罪があるとしたら、それは現代まで続く金融というパンドラの箱を開いてしまったことなのでしょう。
もしかしたら、それこそが呪いの本当の正体であったのかもしれませんね。

そんな訳で今日のはこの辺で。
また第9夜でお会いしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?