フェミ国家が好戦的になったのは「有害な男性性」ではなく「有害な女性性」のためでは

エマニュエル・トッドが『西洋の敗北』の第7章「北欧――フェミニズムから好戦主義へ」で「乱暴な仮説」を提示しているが、これはちょっと違うのではないかと思われる。

フェミニズムが、平和主義を奨励するどころか、好戦主義を促進することなどありうるのだろうか。
スウェーデンのマグダレナ・アンデションとフィンランドのサンナ・マリンという二人の女性首相は、自国のNATO加盟を決断した。「女性」と「戦争拒否」を結びつけるイングルハートの仮説を念頭に置けば、国際舞台において最高の地位にいる彼女たちの一部には、一種の欺瞞や無理が生じていると想定できる。「戦争は男たちのものだった。私たちは彼らと同じか、それ以上の決意を示さなければならない」と。ここで私の乱暴な仮説を言わせてもらえば、彼女たちは無意識のうちに有害な「男性性」を摂取してしまったのではないかというものだ。ウクライナ戦争への政治家の態度に関する男女別の統計分析は、素晴らしい博論のテーマととなりうるだろう。ヴィクトリア・ヌーランド(米国務次官、ウクライナ担当)、ウルスラ・フォン・デア・ライエン(欧州委員会委員長)、アナレーナ・ベアボック(ドイツ外相)など、戦争に情熱を注ぐ彼女たちは、自分自身以上のものを表現しているのか、そうでないのか。彼女たちより慎重なショルツとマクロンの態度は「男性性」の表現と見るべきなのか。

p.256-257
これらに加えてバルト三国の狂犬チワワたちも。

コンラート・ローレンツの鳩と狼の比較を用いると、鳩が女、狼が男になるのだろうが、鳩に攻撃性がないわけではない。

まず、フェミニストは平和志向・対話重視ではなく、意見が異なる相手(敵)に対して極めて攻撃的であることは周知の事実である。

また、女が暴力嫌い・平和主義に見えるのは自身の安全を男以上に求める(⇒リスク回避志向の強さ)ためだとも考えられる。従って、自分の身の安全が確保されている状態、例えば、強い男が自分に代わってターゲットを攻撃してくれたり、相手が反撃できないのであれば、攻撃的・好戦的へと態度を翻すわけである。

更に、男の攻撃性は自分の支配圏を広めるために発揮されるのに対して、女の攻撃性は三流小説『パワー』に描かれたように、自分にいる空間を純化・浄化(不快な存在を排除)するために向けられるという方向性の違いはあるが、男にあって女にないわけではない。

パワーのおかげで社会の男女の権限も変化する。政情が不安定なある国で残虐な女性が政権を握り、独裁者として男性の虐待を行うようになる。

「子孫を残すために男は必要だが、数が多い必要はない」と男性を間引きする案も女性から出るようになる。

これらを考慮すると、北欧諸国がロシアに対して攻撃的・好戦的になったのは、

  • アジア人の血が混じった野蛮なロシア人がすぐ近くにいることへの不快感

  • 強大なアメリカとEUがロシアを叩き潰してくれるという安心感

のミックスによるもの、つまりはtoxic masculinity(有害な男性性)ではなくtoxic femininity(有害な女性性)の発露なのではないかと考えられるのである。タレブ風に言うなら"skin in the game"していないから、つまりはリスクを感じていないからやたらと強気になれるわけである。

この👇男2人vs女2人のディベートに男と女の戦争観の違いが表れているように感じられる。「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」という台詞があるが、男は(ショルツやマクロンも)撃ち返されるリスクを認識しているのに対して、女は(上述の政治家たちも含めて)認識しているようには見えない。

実はトッドの考察はもう少し続くのだが、そこはさておく。

いいなと思ったら応援しよう!