男子禁制は差別か否か

マスコミや活動家は「トランスジェンダー=性同一性障害(GID)」のようにミスリードしようとしているがそうではない。その裏に隠された目的は一般人の想像を超えた社会革命である。

この問題が厄介なのは、トランス思想が大方の日本人の想像の範囲を超えているため、それが目指しているところを理解できず、社会的インパクトを過小評価してしまうことである。

古今東西の人間社会は男女の別があることを土台にして構築され、その別は肉体的(生物学的)なものであることは自明とされていたが、近年の西洋で生まれたトランス思想とは「性」は肉体的なものではなく精神的なものなので、当人の自己申告によって決まる(「気分」なので一定でなくてもよい=gender fluid)とコペルニクス的転回するものである。「自分は女」と宣言した人は生物学的な性とは関係なく社会的に女として扱われ、扱わない人は差別者としてキャンセルの対象になる。

これまでの社会では女用の浴場やトイレ、更衣室などは男子禁制というのが常識だったが、トランス思想を基に再構築された社会では男も「心は女」と自称すれば自由に出入りできるようになる。現実問題として、すべての施設で自己申告による性別確認をすることは困難なので、「男女の別」は有名無実になる。

このように、社会秩序・構造を土台から作り変える(パラダイムシフトさせる)ことがトランス思想が目指すところだが、このような特異な思想が西洋の知的エリートに広がっている背景には"objectivity"に対する懐疑がある(←ポストモダニズム)。

But increasingly, reporters, editors and media critics argue that the concept of journalistic objectivity is a distortion of reality. They point out that the standard was dictated over decades by male editors in predominantly White newsrooms and reinforced their own view of the world. They believe that pursuing objectivity can lead to false balance or misleading “bothsidesism” in covering stories about race, the treatment of women, LGBTQ+ rights, income inequality, climate change and many other subjects. And, in today’s diversifying newsrooms, they feel it negates many of their own identities, life experiences and cultural contexts, keeping them from pursuing truth in their work.

強調は引用者

[…] , I never understood what “objectivity” meant. I didn’t consider it a standard for our newsroom. My goals for our journalism were instead accuracy, fairness, nonpartisanship, accountability and the pursuit of truth.

Objectivityが体の性、truthが心の性になる

デカルトは「我思う、故に我あり」と書いたが、トランス思想では「性は客観的に決められないが、自分が思う(感じる)性は疑えない」となる。このような論理から、性は他者によって男/女のどちらかに決めつけられるものではなく、自分の意志で選ぶもの(それも二種類とは限らない)であり、その選択が「抑圧からの解放」だという特異な観念が生じたわけである。

マスコミと活動家は「進んだ西洋に遅れるな」とトランス革命の旗を振っているが、バスに乗ってしまえばこれ👇を上回る社会混乱が起きることは間違いない。

女湯に男が入れないのは自然の理か"WHITE ONLY"と同様の差別か。

ロウアーなアンチフェミ男がフェミ女(特にアッパー層)を叩くためにトランス思想を利用しているのは見苦しい。

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