かねての持論と同じことをエマニュエル・トッドが言っていたので、少し発展させてみる。
山極壽一の言葉を借りると、女は家族の論理、男は共同体の論理になる。
このように男女の行動原理が異なるなら、男の論理で構築された男の領域だった「社会」への女の進出は、文化摩擦と社会システムの想定外の動きを引き起こすと予想される。
「男は敷居を跨げば七人の敵あり」という言葉があるように、男は我が家の内と外は違って当然であり、外では内のようには振る舞えず、safe spaceでもないことを受け入れている。これは共同体の論理である。
男が考える女の社会進出は、女が社会で共同体の論理で行動することだが、女にとっての社会進出は「家庭を社会に拡張する」「社会を我が家のような空間に作り変える」、つまりは
ことと表現できる。批判されると、男に攻撃・抑圧されたという被害者仕草になる。
その一例がこれ👇で、男の論理では公私の別を弁えない非常識な行動だが、女の論理では社会正義を実践したことになる。
遡るとこれ👇もあった(林真理子は名誉男性)。
👇はアメリカの大学の学生と役職員の多数派が女になったGreat Feminizationと、若者のメンタルヘルスの悪化や非寛容の強まり(→キャンセルカルチャー)の関係についての論考だが、かなり説得力があるように思われる。大学は自分とは異なる考え方に触れ、意見を戦わせる場だが、女にとっては心理的なsafe spaceではないので拒否反応が生じてしまうわけである。
学生や大学の空気の「感情化」もGreat Feminizationと関係していると思われる。
フェミニストが「性犯罪を警戒して」という呼び掛けに激昂するのも、社会がsafe spaceであって当然だという意識が根底にある。自宅でくつろぎたいのに緊張感を持てと強要されているように感じて苛立つようなものである。
最近ではフェミニストによるエロ画像攻撃が多発しており、フェミが保守化しているとも言われているがそうではない。保守派によるエロ規制は風紀、社会秩序の乱れを防ごうというものだが、フェミのエロ狩りは「自分の空間に男のキモい性欲(を想起させるもの)があるのは許せない」という個人の感情に駆動されている。母親が「我が家のルール」に基づいて息子のエロ本を捨てるように、そのルールを社会に拡張するわけである。
高度な文明社会には階層化・機能分化した大規模な集団が、そのような集団の形成には男の論理が必要になる。なので、女が女の論理のまま社会進出すれば、社会が動揺するのは必然と言える。