左派ポピュリズムに騙されるな
松尾匡が左派やリベラル派が先進国の労働者の敵であることを明らかにしている。
発展途上国の労働者の賃金が上がれば、企業が海外移転することもなくなり、先進国の労働者は雇用が守られます。移民や少数民族の賃金も、先進国主流民族の労働者と同じレベルに上がれば、雇用が取り替えられることはなくなります。
新自由主義のもたらした悲惨を真に解決することは、移民や少数民族や外国人の一般大衆を敵認定する右派ポピュリズムにはできない。民族が違っても「われら」の仲間とみなす左派ポピュリズムにこそそれができるということがわかります。
発展途上国の労働者の賃金を先進国と同水準に上げるためには、教育やインフラストラクチャー整備のための巨額の公的援助や企業の直接投資が必要になるが、それは同時に先進国の公的サービスの削減や国内設備投資の減少につながる。松尾は「中国人やフィリピン人を豊かにするために日本人は『幸福な王子』になれ」と言っているに等しい。
松尾は移民にも賛成のようだが、低賃金国からの労働者の流入は競合を強いられる日本人労働者の賃金を引き下げる。多民族化→社会の一体感が弱まる→格差が拡大しやすくなることも重要である。
五番目に、同じように「国民仲間」の意識が薄れる傾向をもたらすのは、各国で広がる人種的多様性です。・・・・・・それによってもたらされる文化的多様性が、社会的結合と福祉国家への政治的支持に与える影響を過小評価できません。
ヨーロッパや日本でいえば、「左翼インテリ」、アメリカの用語を使えば「リベラルなインテリ」の間では、いわゆる「多文化主義」が当たり前とされてきました。・・・・・・いわゆる「政治的ただしさ」(political correctness)の一要素だったのです。
松尾の主張は「世界中の賃金水準を等しくするために資本と労働の国際移動を促進するべき」というグローバリズム/ネオリベラリズムそのもので、既に起こっていることである。
発展途上国の急速な経済成長に伴って国際格差が縮小する一方で、先進国では中間層の所得が停滞する中、富裕層が経済的な成功を収め、国内格差が拡大した。
先進国ではグローバル化と技術革新のふたつの力が中産階級を圧迫し続けることになるだろう。固定化した上流階級は高額な高等教育を受ける機会が増え、その恩恵に浴することになり、その上、自分たちに有利な税制など各種「金持ち優遇」政策を成立させるために政治的影響力を行使していく。こうした背景の中で社会移動性は低下していくだろう。所得格差が拡大するにつれて、社会的な緊張と政治的な衝突も増していくだろう。
象の鼻先を除いた日本人の生活水準を中国人やフィリピン人並みにすることが左派ポピュリズムの目標なので、悲惨な現実は解決ではなく悪化することは間違いない。国際格差の縮小は国内格差の拡大と表裏一体である。
リベラルはネオリベラルの敵であるかのように見せかけて現状に不満を持つ人々をオルグしようとしているが、関心の向きがリベラルは反差別、ネオリベラルはカネと異なるだけで、どちらも国民国家や民族共同体を解体して個人をむき出しにすることを志向する同類である(⇩)。「反緊縮」という甘い言葉に騙されないように。
人種問題にしろ老人問題にしろ、ほとんどあらゆる差別反対運動は、カテゴリーを解体して個人に還元せよという要求をもっているように見える。
個人主義という思想は、カテゴリーを解体しつくしそうとする。女の運動もまたそれに手を貸している。大人と子供、男と女、老人と若者というカテゴリーがすべて解体し、平等な個人がむき出された時に、一体どんな理想社会が実現するのか、私自身もそれに手を貸しながら、ふとアンビヴァレントな思いを避けることができない。
資本は、無家族を理想とします。真っ平らな平面に置かれたバラバラの個人のほうが管理がしやすいからです。今、家族のなかに外部の論理が急速に浸透し始めています。規制緩和という名目でも、家は、しだいに解体の方向へ仕向けられているように思えます。家がなくなれば、人間は散乱した存在となります。
フリードマンによると、経済の自由は、思想的自由の確保や差別の排除にもつながる。「何でも金で方がつく」からだ。
自由主義による市場経済は、国民の人権を守る
~言論の自由を守り、政治思想や人種による差別もなくす~
反差別を追求すると金がものを言う「金に支配される」社会に行き着く。