Assassin's Creed Shadowsと1579プロジェクト
日本ではまだ👇のような認識が主流のようだが、これでは甘すぎる。
Assassin's Creed Shadowsは単なるシリーズ物のゲームの一つにとどまるものではなく、日本史に黒人を捻じ込もうとするwokeism白人とAfrocentrism黒人による「1579プロジェクト」の一環だと認識するべきである(1579年は弥助がヴァリニャーノと共に来日した年)。「1579プロジェクト」だというのは、最初の黒人奴隷がヴァージニア植民地に着いた1619年が真のUSA建国の年だというNYTによるアメリカ史書き換えの試みの「1619プロジェクト」に通じているからである。
弥助を英雄化・偶像化する「ロックリー史観」はトーマス・ロックリーが個人的関心から始めたものだが、著書『AFRICAN SAMURAI: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan』『YASUKE: The True Story of the Legendary African Samurai』(同内容)がWOKEやcritical race theoryやBLMといった黒人上げの時流に乗って史実として受け止められ、一つの思想・歴史観・世界観へと成長を遂げた。ロックリーはキリスト教におけるパウロの役割を果たしていることになる。
ロックリー史観の問題は、黒人上げが同時に日本人下げとなっていることである。日本史の特徴は武家政治が長期間続いたことで、スポーツの日本代表が「サムライ◯◯」と称するように、侍は日本のナショナル・アイデンティティ、国家イメージになっている。映画『プレデターズ』でもサムライ的なヤクザが肯定的イメージで描かれるなど、「日本と言えばサムライ」のイメージは海外にも広がっている。
だが、織田信長に仕えた期間が1年強しかなかった黒人の弥助のTrue Storyが
織田信長の最側近にまで昇進していた
文武両道で戦国日本最強の侍だった
神仏(大黒天)の化身だとして崇められた
本能寺の変がなければ城持ちになっていた
などなど、戦国時代の日本で実力ナンバーワンのサムライだったとすれば、日本人の侍の価値は暴落してしまう。
身長でも弥助の大きさ(日本の記録では182㎝だが188㎝とされる)と日本人の小ささが強調されている。👇の対談では、弥助は現代では210㎝に相当する大巨人だったことになっている。
ACSがロックリーの妄想から増殖した「正しい日本史観」をゲーム世界で体験するというコンセプトで作られたものであることはほぼ間違いないと言える。のし歩く弥助に民衆が頭を下げるのは大黒天の化身だとして畏れているため、弥助が立ち向かう武士たちを圧倒的パワーで粉砕・斬首するのは実力の差を見せつけているわけである。
戦国時代の日本で黒人が無双する(⇔日本人を貶める、日本のナショナル・アイデンティティを傷つける)ことを「史実に基づいたTrue Story」として定着させるのが1579プロジェクトで、ACSはその一環ということである。日本人から見れば荒唐無稽な設定(大きな嘘)でも、完全なフィクションとして受け止められるとは限らない。実際、弥助は戦国時代の日本で英雄的活躍をしたという荒唐無稽な話をBBC、CNN、Smithonian Magazineといった権威のあるメディアが史実だとして報じている。また、伝統のあるBritannicaのYasukeの項目でも、Written by Thomas Lockley, Fact-checked by The Editors of Encyclopedia Britannicaと、ロックリーの作り話にファクトチェック済のお墨付きが与えられている。また、👇で指摘されているように、米議会図書館でも同書や類書はBiography, Historyの分類、つまりは史実として扱われている。
日本の年配者は「たかがゲーム」と過小評価しているようだが、ハリウッド映画が宣伝戦で絶大な効果を発揮してきたように、現代ではビデオゲームのプロパガンダ効果には無視できないものがある。
ゲームの製作者にしてみれば、日本人がゴブリンのように殲滅されているゲームを日本人が喜んで受け入れれば大成功で、この👇ような反応は平和ボケした度し難い鈍感としか言いようがない。
ヒトラーは独ソ戦は「二つの相対立する世界観の戦争」だと言ったが、ロックリー史観に基づく1579プロジェクトが日本に仕掛けているのも世界観の戦争、文化侵略、認知戦であり、「フィクションだと断っていればOK」などという甘い認識では100%敗北するだろう。