リベラリズム布教に狂奔する日本の社会学者

アメリカのBLMに呼応して、日本でも社会学者が日本人をリベラリズムに従わせようと必死だが、ロジックが出鱈目過ぎて成功しているとは言えないようである。

一つ目がフェミサイドだが、

警察庁の最新のデータによると、世界的に見て殺人件数が少ない日本では、殺人によって命を奪われる女性は100万人当たり3人以下と非常に低い水準となっている。
しかしながら懸念すべき点として、殺人事件の犠牲となった319人のうち女性は181人と過半数を超えており、日本は被害者の女性比率が世界で最も高い国の一つとなっている。
今回、福岡市で発生した残酷な女性刺殺事件によってあらためて明らかになったように、日本社会にも確かにフェミサイドが存在する。

これについては検証済である。

日本は近年のメキシコや1990年代のロシアのような男同士が抗争を繰り広げる社会ではないので、殺人の被害者も「男女平等」に近づく。この社会学者は殺される男が少ないことを懸念していることになる。フェミサイドはフェミニストが「男は加害者(=悪)/女は被害者」という固定観念を人々に植え付けるためにでっち上げたものであり、現代の日本人が真に受ける必要はない。

フェミニストが殊更に男の加害性を強調する背景には、強者の女による弱者の女の搾取の構造(強者の女の加害性)を隠す意図もあると思われる。指導的フェミニストは『動物農場』の🐷と思えばよい。

二つ目はこれ(⇩)だが、無茶苦茶過ぎて論じるに値しない。

肌の色は「同族か否か」を見分けるために最も有効だからである。

「なぜ耳の長さでなく肌の色が重要だと思う?と尋ねます。身体的特徴と言われるものはほかにもたくさんあります」

肌の色を重要視するのは黒人も同じ。

近代以前の西洋社会には非白人が少なかった→「区分」は白人を区分するためのものだった→身体的特徴よりも身分の違いが重要だったためである。

「また、西洋でも身体的特徴が重要な区分になったのは近代以後とされています。それ以前は『貴族か平民か』といった区分の方がずっと重要でした」

アッカド人、ソマリア人、マジャール人、朝鮮人などの「〇〇人」に相当する言葉として「民族」を使うようになっただけで、人間集団の区切り方としては大昔から存在する。

人種とは別に、独自の区切り方を作ったのです」

漢人にとっての匈奴、ローマ人にとってのギリシャ人やガリア人やゲルマン人、イングランド人にとってのスコットランド人やアイルランド人は「人種は同じだが別の民族」であり、支配ー被支配の関係もあった。

アメリカに移住したヨーロッパの各民族が「白人」として一体化したのは、黒人に比べればイングランド人、ドイツ人、イタリア人、アイルランド人などの違いは微々たるものだったためである。

結局、最後のこれ(⇩)を言いたいがために出鱈目を言っているわけだが、

「まず、国内に差別があることを認識する。そこから始めてはどうでしょう」

社会学者が執拗に「差別」に拘るのは、彼らが信仰するリベラリズムの核が「原罪と贖罪」だからである。彼らは『ジョジョの奇妙な冒険』第四部に登場する錠前のスタンド使い小林玉美のように、相手に罪の意識を持たせて心理的に支配しようとしている。

アメリカのリベラリズムについてはこちら(⇩)の「Ⅰ リベラルという宗教」が参考になるのでお勧め。ちなみに、フェルドマン教授は「従軍慰安婦」を日本人の原罪と考えているらしい。

「人種間の平等」がリベラルの”宗教“であるという考えを、私は直接的にはハーバード・ロースクールの憲法の授業で、ノア・フェルドマン教授に習った。
「そう、黒人を奴隷としてきた歴史が、我々が抱える『原罪』だ。では、この認識が最もよく表れた有名なスピーチは?」
「さて、南北戦争によって流された血、リンカーン大統領とキング牧師の暗殺、これによって『原罪』はすべて消えてなくなってしまったのだろうか」
「そう、我々はいまだ消えぬ『原罪』を抱えている。道半ばに倒れた『キリスト』の意志を継いで『白人と黒人の平等』という教義を世に広めようと努力し続けている。信仰にも似た熱心さと従順さで。この『人種間の平等』が我々リベラルの心の拠り所だ。この教えをリベラルの『信仰』としないで、他の何が信仰の名に値するだろう」
確かに、リベラルが信じているのは「人種間の平等」だ。この教義は後に「すべての人間の平等」へと拡大した。フェミニストはそこに「男女の平等」を入れ込み、LGBTは「セクシャリティの平等」を含めることを主張したからだ。

このキリスト教的発想がこの絵(⇩)の意味。

ところが、日本にはアメリカのインディアン殲滅や奴隷制のような歴史がないので、「日本人もアメリカ白人と同じ原罪を背負っている」と信じ込ませることは難しい。アメリカのリベラルの手法を直輸入すると、このように(⇩)ありもしない差別を捏造するしかなくなる。

でっち上げた差別をネタに大衆を支配しようとする社会学者は、学者ではなく社会運動家と名乗るべきだろう。

古市 上野さんはずっと敵がいたわけですか。
上野 そう。だから戦略的には動きますよ。私は経験科学の研究者だから嘘はつかないけど、本当のことを言わないこともある。
古市 つまり、データを出さないこともある?
上野 もちろんです。
古市 それはいいんですか?
上野 当たり前よ。それはパフォーマンスレベルの話だから。
上野 そう。その話を小熊英二さんに話したら、「社会運動家としては正しい選択です」と言ってくれました。

付録

ロシアのボリショイバレエがインド人を表現するために黒塗りすることをアメリカの黒人バレリーナが「差別」と批判するという筋違いなもの。

これは差別と言う名目でインド人からアメリカ黒人が「奪う」ことを意味する。Cultural appropriationの逆応用とも言える。

この前例が『ちびくろサンボ』で、虎が登場することから舞台がアフリカでないことは明らかなのに、黒人を描いたものだとする「簒奪」が行われている。

「ブラック企業は黒人差別」も、日本語をアメリカの価値基準で制約するという文化侵略である。

対リベラリズムでは、中国やロシア、あるいは豊臣秀吉や徳川家康を見習いたい。

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