排除された男が「行動する傍観者」になるメリットはあるか
フェミニズムが互酬性に基づく男女対等ではなく、女の男への一方的要求であることを示す事例を二つ取り上げる。
一つ目。
赤の他人の一般人の男にとって、被害に遭っている女を助けることにはリスクや危険はあるが(男に攻撃されたり、女に共犯者扱いされるなど)、直接的なメリットはない。
それでもフェミ女が見ず知らずの男に「体を張る」ことを求めるのであれば、日頃から男全般に対してそれなりの態度で接するべきだが、実際はその逆で、アルテイシアのように「意識をアップデートせよ」と非難するばかりである。
これは、先進国の左派が警官や軍人を「人殺し」などと罵倒する一方で、危機的事態に陥ると一転して助けを求めることと似ている。警官や軍人は任務なので助けるが、一般人にはその義務はない。
フェミ女は優秀ではない男を社会的排除しようとする一方で、排除対象の男にも協力を求めるが、それはそのような男は自分と対等な社会の一員ではなく、アンダークラスの賤民だからである。フェミ女の世界観は上級女=両班、下級女=中人、一般の男=賤民、特別に優秀な男=王族のようなものと思えばよい。
男の性奴隷の命は安いので、虐待して殺しても、利用する側には罪の意識はない。
「子孫を残すために男は必要だが、数が多い必要はない」と男性を間引きする案も女性から出るようになる。
自分が社会的に包摂されていると感じている人は、赤の他人であっても「同じ社会の一員なので助けよう」という気になりやすいが、社会的排除されていると感じている人はそのような気にはなりにくい。嫌悪して排除しながら協力を強要するフェミ女は根本的に矛盾しているが、それは男に対して互酬性ではなく、ひたすら貢がせる猿的本能に従っているからである。
男性嫌悪は自衛であり、何もないところからは生まれてきません。男性たちにとって、女性が彼らを嫌悪していること、そしてそれが何故なのかを知ることは重要なことです。
いずれにせよ、私の目的は男性を不愉快にさせることではありません。彼らが勝手に不愉快がっているのです。
フェミニズムのイデオローグの上野千鶴子は弱者の男についてこの(⇩)ように言っていたので、男も「女を守る」社会的役割から解放されて、性犯罪に遭って助けを求める邪魔な女を振り払い、足蹴にしてもよいはずである。強調した部分はフェミ女にこそ当てはまる。
何でフェミニズムが、彼らの不安のケアをしなければならないのですか? 女にケアを求めるのは筋ちがいでしょう。そういう人たちがフェミニズムの妨げになるかもしれないので、降りかかる火の粉は振り払い、じゃまなものは足蹴にしなくてはならないから、対策は必要だとは思いますよ。私は社会工学的で管理主義的な発想を持たないので、彼らをケアする、つまり慰撫したり統制したりしようとは思いません。自分のケアは自分でする、これがフェミニズムの自己解放の思想の基本のきです。
自然史的・人類史的に言えば、マスターベーションしながら死んでいただければいいと思います。冷たいでしょうか。
女を守ろうとする「行動する傍観者」よりも、加害者の方がもっと「いい男」かもしれない。
最後に、平時の男たちの怠惰は、いざ戦時に男たちが身を挺して女子どもを守る働きによって免責してもらえるだろう、という考えがある。ところでちょっと待てよ、男たちはいったい何から女たちを守ることになるんだろうか。考えてもみると、これもバカバカしいことがわかる。男たちは他の男たちと争いを起こして、自分の女たちを守っているだけである。「守られて」みなければ、敵の方がもっと「いい男」かもしれないのだ。
自称広義のリベラリストの宮台真司が成熟社会では「仲間以外は皆風景」になると言っていたが、リベラル化した社会では自助が基本で、仲間以外からの共助を期待する方が間違いである。
ハフポストの記事で紹介されている動画の最後には
性犯罪の加害者の95%以上が男性、被害者の90%以上が女性です。
とのメッセージがあるが、これは杉田水脈議員への批判が難癖に過ぎないことの証明にもなっている。被害者の大半が女であることは、虚偽申告をする自称被害者が女である前提で話をしても性差別にはならないからである。
二つ目。
このサービスそのものには問題は無いが、男の排除を付加価値として認めるのであれば、他の状況では女が排除されたり、排除されなくても結果的に男が優勢になっても必ずしも性差別とは言えないことも認めなければならない。「男お断り」と「女が少ないのは差別」を状況に合わせて使い分けるのは都合が良すぎる。利益のシェアは(貢献の度合を超えて)要求するが、損失はシェアせずに男に押し付けるのがフェミである。