『西洋の敗北』読了

エマニュエル・トッドの新著『西洋の敗北』を読了したのでちょっと書く。

主旨は「西洋の発展の推進力だったプロテスタンティズムが最終的に消滅→道徳と知性が崩壊」というもので、エリートから道徳(公徳心、良心、自制心、ノブレス・オブリージュ、等々)が失われ、権力・金力の亡者に成り下がってしまったというのがトッドの現状分析である。

本題に入る前に日本人が知っておいたほうがよいと思われるのが第1章のロシアと第2章のウクライナに関する分析である。👇の論説も大いに参考になるが、日本でもロシアとウクライナに関しては西側によって修正(操作)されたナラティヴが蔓延し、大本営発表が垂れ流される残念な状況が続いている。

西洋が狂ったことの象徴的事例がトランスジェンダーで、トッドはLGBTQ思想を厳しく取り締まるロシアがソフトパワーを非西洋諸国に及ぼしていると分析している。

アメリカで、より一般的には西洋世界全体で、「トランスジェンダー」が中心的な問題になっていることの社会学的意味と道徳的意味――この二つは分けられない――を掴むことである。事実は単純なので、手短に結論を言おう。遺伝子学によれば、男(XY染色体)を女(XX染色体)に変えることはできないし、その逆もまた不可能である。にもかかわらず、それができると主張することは、虚偽を肯定することで、典型的なニヒリストの知的行為である。虚偽を肯定し、虚偽を崇拝し、虚偽を社会の真理として押し付けたいという欲求が、ある社会化カテゴリー(中流階級のどちらかといえば上層部)とそのメディア(『ニューヨーク・タイムズ紙』、『ワシントン・ポスト紙』)を支配しているのだとしたら、私たちはニヒリスト宗教を目の前にしていることになる。

p.276-277

西洋のトランスジェンダー思想は、ゲイ思想以上に、父系制の世界にさらに深刻な問題を突きつけているようだ。父方の親族と母方の親族の違いが構造化され、男女という対立概念が不可欠なものとして存在している社会で、「男は女になれる、女は男になれる」と説くような思想がはたして受け入れられるだろうか。彼らの反発を単なる拒絶だと切り捨ててしまっては、この対立の意味を過小評価することになる。「西洋は狂ってしまった」と彼らが考えてしまうのも、まったくもって理に適ったことなのだ。

p.353

第11章の終わり(p.353~355)では唐突に日本に言及されているが、さてどちらだろうか。この箇所では「神谷宗幣が代表を務める参政党」や「ITビジネスアナリストの深田萌絵」と出てきたのでちょっと驚いた。

日本が政治的にLGBT思想に転換したことで、日本国民がアメリカに近づいたのか、それとも強大な保護国に対する日本国民の恨みがさらに増したのか。いずれであるかは、いつかわかるだろう。

p.354-355

西洋社会の心性が危機的な状況にあることがかなりの説得力で論証されており、現実にも女子スポーツに男が参加して無双するといった異常事態が頻発しているわけだが、多くの人は「アメリカのエリートは普遍的正義を体現しており正当性がある」という願望と正常性バイアスのために危機感を持てないだろう、という感想を持った。

補足

宗教が最終的に失われて(ゼロ状態)ニヒリズムが支配⇒道徳から力への移行⇒政治も王道から覇道へ、というのがアメリカと西洋の現状で、トッドの見立てでは回復不能。

この力を“増大する”というのが重要で、いかなる問題においても、自分自身の力を増大させることが良いことであるとして、“力の増大”の極限状態として“超人”を考えたのです。ニーチェは、物事を認識する場合も力の関係で理解します。それは、道徳の問題も同じです。道徳の場合、彼は”強者と弱者”を例に出し、弱者が道徳を作り出したと言います。

https://toyokeizai.net/articles/-/461925

“権力への意志”、つまり力を増大させたいという意志は、どんなものにもあると考えます。それは決して人間だけでなく、生物界のすべてが力の増大を目指すというのがニーチェの生命観なのです。そして、それらを全面的に肯定しようという発想が”超人”という概念に繋がり、力の増大を認めようとするのです。

https://toyokeizai.net/articles/-/461925

付記

「民主主義」という不適切訳が頻出するのが気になった。英語だと-cracyは政治的意思決定者・意思決定のあり方を示す政治体制のことなので、専制や寡頭制と対比するなら民主制や民衆制にしなければならない。

ここからは、ウクライナを介して、ロシアの専制体制と対立し、メディアや大学で、あるいは選挙時に自由民主主義と称されている政治システムに再検討を加えよう。

p.163

こうした観点から、西洋で「自由(リベラル)民主主義」と呼ばれてきたものは、「リベラル寡頭制」と位置づけ直される。

p.164

なぜか最後では「民主制」と訳されているのは謎。

トゥキディデスは、ペロポネソス戦争を描いた『歴史』で、スパルタとアテネの対立は寡頭制原理と民主制原理の対立となり、都市国家内部の国内闘争と都市国家間における軍事的対立が次第に同様の様相を呈するようになっていったと述べている。

p.412

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