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自己責任論はパチンコ・スロットの打ち手を豊かにするか

■自己責任論は打ち手を豊かにするか

自己責任論はパチンコ・スロットの打ち手を豊かにするだろうか?

個人的には大学の頃からずっと苦手に思っていた思想のため、引っ掛かっている部分が多く、今回の記事では批判的な見解を並べることになったため「もういいぜ」って方はブラウザバックしてほしい。

逆に、いま自責思考で苦しんでいる人は良かったら目を通してほしい。少し気持ちが楽になるかもしれない。

■「自己責任論」とは何か

いらすとやのバリエーションは素晴らしい。

自己責任論とは、自分の行動が引き起こしたものによって生まれる結果はすべて自分の責任であるとする論理のことだ。

例を挙げるなら「貧困は努力を怠った結果」とか、「内戦状態の地帯に潜入したジャーナリストが武装勢力に捕まるのは自業自得」とか、
あとは「お前がタコ負けしているのはその台に座ったお前のせい」とか。パチンコやスロットの打ち手にとっては一番最後の例えが飲み込みやすかろう。

■パチンコ・スロットは社会から隔絶された「遊び」

いま挙げた3つの例は、すべて同一の論理が展開されているように見えるが、じっくり検討すると"舞台"がそれぞれ違う。

貧困(あるいは就業先が見つけられないこと)は労働市場や福祉の現場で発生する現象だ。また武装勢力に誘拐される事態は特殊な職業だからこそ発生しうる特殊なイベントと言える。
一応どちらも現実の社会(世界)で起こり得ることではあるが、最後の「タコ負け」については違う。唯一「遊び」の中において発生している事象だからだ。

フランスの哲学者、ロジェ・カイヨワは「遊び」を下記のように定義した。

1.自由な活動。すなわち、遊戯が強制されないこと。
2.隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
3.未確定な活動。すなわち、ゲームの展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならないこと。
4.非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。
5.規則のある活動。すなわち、約束ごと(ルール)に従う活動であること。
6.虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』:状況に埋め込まれたブログ

※『遊びと人間』は一応読んだし自宅にあるが、条件をすべて暗記しているわけではないし、参照するのが面倒だったため定義は注釈のブログ記事から引用した。

カイヨワは、以上の定義から逸脱した遊びは「堕落した遊び」であり、本来的な遊びではないと否定する。記憶が正しければ、たしかパチンコは本文中でバッチリやり玉に挙げられていたはずだ。
興味がある方はぜひ参照元の要約だけでも目を通してほしい。

■「遊び」を通して自己責任論が強化される?

わざわざ「遊び」の定義を挙げて何が言いたいか。
要は、パチンコやスロットは「社会から隔離された活動」であるということだ。

サラッと書くが、現実社会で発生する問題(貧困や痴漢被害、ジャーナリスト誘拐 etc)をすべて自己責任論で片付けることは困難だ。

他方で「タコ負け」は社会から隔絶された空間(遊技場!)で発生するイベントである。遊びの中で生じた勝ち負け、利益や損失は自らの行動によるものと考えることはまったくもって不自然ではない。

というか、パチンコ屋に足を踏み込んだ人間がもしこの考え方を飲み込めない場合は速やかにその場を離れるべきだとさえ感じる。

「この店は磁場が悪い」「まだメイン基盤が温まっていない」「店長の呪いがひどすぎる」くらいなら適度なオカルトとして笑えるが、
もし磁場や基盤が悪いことを本気で追及していたり「今日、タコ負けしたのは遠隔操作のせいだ」などと大真面目に言っているのだとすれば、もう打つのは止しましょうか…となる。

遊技場(特に"賭け"を伴う遊び)で自己責任論を飲み込めない人間は、その遊びに取り組むべきではない。これは、自己責任論が特に有効な環境だからこそ言えることだ。

問題は、われわれ打ち手は遊技場で飲み込むべき自己責任論という極端な思想を、実社会で個人や物事を斬るロジックとして使いがちではないかという点だ。

■「自己責任論」は物事の単純化である

自己責任論とはつまるところ、あらゆる物事を単純化する思想だ。
環境要因を取り除いて「すべての結果はお前の行動に責任(原因)がある」とするのだから、思想としてはかなり極端とも言える。

これをもし誰かが抱える問題に適用しようとしているなら今すぐに辞めた方が良い。こっぴどい言い方になって申し訳ないが、この思想をベースにした言動は"お気持ち表明"以外の何物にもなり得ない。あらゆる社会問題に対して自分を気持ち良くする効果しかないので、今すぐ差し控えるべきだ。本当に問題を引き起こしている"ヤバい要因"を見逃しかねない。

「おまいう」で恐縮だが、ある結果に対する原因は複合的であるとする考え方は、たとえばギャンブル依存症のリカバリーサポートにて適用されている。

すべての団体を調べ切れているわけではないが、ある分野でののめり込みを生活を破綻させる「原因」として捉えず、生活についていくつかの課題を持つ人物が辿り着く「結果」として捉えるアプローチは、ギャンブル依存症だけではなく他の行動嗜癖に対しても適用されているアプローチではないかと推測する。

例として、ギャンブル依存症のリカバリー認定NPO法人ワンデーポートの「団体理念」の一部を引用する。

 当事者が中心に2000年にワンデーポートは設立されました。当初は、自助グループ(ギャンブラーズ・アノニマス)の考え方を指針としていました。
「ギャンブル依存症は回復できる病気である」と考え、グループセラピーを主体としたカリキュラムを組んでいました。

 開設して4~5年ほど経過したときに、依存の問題を抱える人には個別性があり自助グループの考え方が合わない人が存在することに気づきました。また、ギャンブルに触れる前から個別的な課題を抱えている人が多いこともわかってきました。(個別的課題)

・ギャンブルをはじめる前から、金銭管理が苦手である
・大学生活に入った直後、あるいは就職後からギャンブルや生活上の問題が生じている
・軽度の知的障害や発達障害の傾向を持っている
・家族の期待が大きすぎる・仕事でのストレスを抱えている(仕事があっていない)
・パチンコや競馬しか楽しみがない  

 このような背景に目を向けたときに、ギャンブルという行為だけに目を向けて「病気」と考えることは、その人にとっての本当の問題から目をそらすことになると考えるようになりました。

団体理念 | 認定NPO法人ワンデーポート

記事へのリンクを貼るので、お時間がある方は是非こちらの団体理念に一度目を通してほしい。

■結論:「遊び」の中では有利に作用するはずの原則だが…

自己責任論は「パチンコ屋で自己責任論を飲み込めない人間は、遊技場を離脱すべきである」と書いた。

明確なルールが設定されており、空間的に社会から隔絶された「遊び」の中で起こることだからこそ、自己責任論は積極的に受け入れるべきだ。というか、受け入れられないと相当マズい。

ただ、やはり遊技場=「遊び」の外(実社会)で起こる物事を、この思想で斬ろうとするのは止めた方が良い。誰も豊かにならない。

* * *

あえて推すならば、自分の職場くらいでは飲み込んだ方が良いかもしれない。いわゆる「自責思考」と呼ばれるものだ。

もっともこの自責思考も、極端に振れるとメンタル疾患の原因になり得る。遊技場でも職場でも、環境要因を正しく分析できない自責思考は自分にも他者にも害をなす。注意して取り扱うべき思想であるという点に変わりはない。

少なくとも、生活の背景が分からない他者に無理やり当てはめるのはなるべく控えた方が良い。

もちろん、世の中には「仕事=遊び(ゲーム)」として発想する人もいるし(実は自分の考えはこれに近い)、逆にパチンコ屋で起こる出来事は社会と地続きであるからこそ「遊び」の範囲を超えて社会問題になり得るため「自己責任論は社会から隔絶されているからこそ有効!」とするこの主張をひっくり返すことも可能なのかもしれない。

ただ、やはりそれでも自己責任論はパチ屋の中だけで留める意識は持った方が良い。

繰り返しになるが、自己責任の原則は空間が社会から隔絶され、ルールが決まっている状況だからこそ有効に働く原理であり、それ以外の事物、人間に当てはめるのは物事の極端な単純化でしかない。

もし、いまこの記事を読んでいるあなたが実社会で自責思考に苦しんでいるならば、いったん歩みを止めて周り(環境)を見渡してみるとちょっとだけ呼吸が楽になるかもしれない。

その苦しさの由来はひょっとすると、パチ屋に長く入り浸った結果、自責思考が強化されているからなのかもしれない。

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