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『プロジェクト・メタフィジカ』 宣言文(メタフィジカの舟/メタフィジカの生存戦略)

宣言文1 メタフィジカの舟(宮﨑悠暢)

「……そして見られるように、探求はまず、探求の諸条件を明確にするという、その第一次的で基本的な要請とともにはじまるのである。」
——ルイ・アルチュセール「今日的時点」

・「喪失」
 「われわれ」も「私たち」も、もはや現代において存在せず、コアのみが集積した「ぼくたち」の時代が到来すると共に、またしてもビッグな主語(あるいは目的語)の「哲学」の季節が終わりを告げた。「一生懸命語学をやればよい」とか、「百回同じテクストを原書で読む」ということが意味を持たなくなったのだ。それはまるで、ゴールテープが見えないままマラソンを走らされ、前の方を走っている人間が「オレが一位だぜ!ざまあみろ!」と高笑い、ところが本人も息が上がってゼエゼエという地獄絵図。今の哲学は、アカデミアだろうが非アカデミアだろうが、何のために人文学をやっているのか分からなくなっているのだ。本を読むだけで鼻血が出るようなリンガホリックな人々は別として、大体の人は哲学書なんて読んでも多くの時間は楽しくない。一生懸命「ベンキョー」したときほど、「で、それ何の役に立つの?」と聞かれて顔が真っ赤になる。
 今の哲学は、よく分からない誰かが決めたルールによって「ファイトする」ことにしかなっていない。そういう寄る辺なさと目的の喪失の空気が、「哲学って何?」という単純な疑問にさえ答えられなく「させられて」しまっているのだ。ちなみに、上の問いに対する答えは実のところ人それぞれだが、とりあえずは「宗教とは違う仕方で神を信じる方法」とでも言っておこう。まあ、神を信じなくともよいということを教えてくれるのもまた、哲学であるのだが。とまれ「ぼくたち」はお粗末な自家製ルールと喪われた目的の中で、自閉に留まったまま言葉の蹴鞠をやり続ける。「ぼくたち」が「われわれ」になってやりたかった哲学って、もっと自由なやり方で人に自分の考えを伝えることではなかったっけ。これじゃあ、なんだかあんまり哲学が楽しく見えないなあ……。

・「はじまり」
 だからと言って、いきなりどでかい論文を書いたり、分厚い本を読んだりはできない。多分、アカデミアを諦めざるを得なかった人や、まだ諦めていない人、そもそもやりたいことがアカデミアにない人、そういう「はぐれ者」たちが集まって論考を書き合ったり、本を読んだりするということがあまりにも難しいのではないか。かといって哲学は、誰でもウェルカムではない。どこからどこまでラインを引けば、自閉的な「哲学」とは別の形で哲学をできるのか、このコロナ全盛の時期に哲学なんかできるかよ、アカデミアにいたらこういうところに出入りしちゃいけないんですか、うんぬんかんぬんエトセトラ……。はっきり言おう。これから立ち上げる同人「プロジェクト・メタフィジカ」は、そういった「あなたたち」の疑問に、一切答えられない。なぜなら、これは「序説」、「はじまり」だからだ。「メタフィジカ」のコンセプトは、「べつの仕方で」。宗教とは「べつの仕方で」神を信じ、アカデミアとは「べつの仕方で」哲学をする。その「べつ」のやり方を決めるルールは多数決しかない。実にシンプルだが、やりようはある。「これしかない、あれしかない」のやり方でしか、哲学ができないことは、それはそれでありだけどあまりにも苦しい。「ぼく」が哲学をやっている理由は「みんなで本を読むと楽しい」からだ。こう書くと、あまりにも単細胞だが。「はじまり」は、フランスの哲学者、ルイ・アルチュセールが重んじた概念だった。「全てははじまりである」。『存在と時間』だって、『再生産について』だって、「はじまり」しか書けなかった。「プロジェクト・メタフィジカ」がなんたるかを今すぐは説明できない。「べつの仕方で」、哲学を「はじめる」ことが「メタフィジカ」の出発点である。

・「地獄」
 さて、今まで使ってきた主語であるところの「ぼくたち」は、コア——矮小な「ぼく」の集積——でしかないことは冒頭で見た。現代日本を見てみれば、誰も大学の講堂に火炎瓶を投げ込まないし(「お前がやれ」という文句は受け付けない)、市ヶ谷を占拠したりもしない。哲学は火炎瓶であると言うつもりもないけれど、なんだか「みんなで何かをやる」という意識がどんどん希薄になってきて、何をモチベーションに頑張ればいいのか分からなくなってくる。
 書き手である「ぼく」は、「メタフィジカ」でたくさん文章を書くつもりだ。哲学の意味、真理の有無、神の存在証明……。「ぼく」が私淑しているある哲学者に倣って言うのであれば、それらはシステムで決定されている。資本主義も、観念論も、バイバイ。そういうといかにもつまらなさそうだが、欲望の機構のダイナミズムを、「ぼく」は懇々と説くだろう。ただし、今「メタフィジカ」にいるもう片方の男は、そうとは限らない。そして、色んな人たちが語る哲学の言葉の持つエロスのぶつかり合いは、せめてカッコ良く、面白くあってほしい。何より願っているのは——そしてこの同人のモチベーションは——見知らぬ誰かが「哲学」をカッコ良いと思い、学の門に足を踏み入れることだ。その一歩が天国か地獄かは分からない。けれども、これから待っているのはサイコーに楽しい地獄だ。「ぼくたち」は、なんとなく、「われわれ」になってしまう。地獄も天国も知らない大人になるなんて、つまらないだろう?哲学は、劣等感から始まってもいいが終着駅はべつのところでなくてはならない。いくら勉強したからといって、「きみ」(そう、そこの「きみ」だ)の青春の痛みを哲学は癒さない。それはそれで地獄だが、痛くも痒くもなく真綿で首を絞める地獄であり、「ぼくたち」は「きみ」が窒息死するのを見たくない。
 「ぼくたち」のビルドの方法はたった一つ、ではない。本を読む、音楽を聴く、友達や恋人と遊ぶ、などなど。色んな方法で自分を切磋琢磨することで言葉を内面化する。「ぼくたち」は研究者ではない。在野で哲学をやっている草の根だ。哲学の意味は人それぞれであることを承知の上で、もはやコアの自意識から解放された——「ぼくたち」ではなくなった——「われわれ」は、こう叫ぶ。

メタフィジカの船出、視界良好!


宣言文2 メタフィジカの生存戦略(伊藤光輝)

「何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない......。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。」
——G・ドゥルーズ「仲介者」

 はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。季節は移ろい、やがて哲学者が告げたという。「爆ぜろリアル! 弾けろシナプス! バニッシュメント・ディス・ワールド!!」 すべての偉大な哲学書はこの一言から生まれたと言ってよい。筆記具をはじめとした限られた手札によって半ば滑稽ともいえる泥試合を厭うことなく戦い抜いた先哲の遊び心こそ“フィロソフィー”にとっての唯一無二の起源であったのだ。それゆえ問わずにいられない。いつから錯覚していたのだろう。「哲学は“お遊び” じゃない!」って、それホント? いいえ。やっとわかりました、哲学というものは純然たる“お遊び”であります。そしてそれでよいのだと。

 全くもってバカバカしい話、僕は大学を卒業してから暫く経ってようやくこの真実に気付いたのであった。あまりにも倒錯的だったかつての自分を省みると頭が痛い。数世紀前の書物「において」リアルを享受するなど逆立ちしたって不可能だ。不可能なのだが、どういうわけか僕は見事にそれをやってのけた。ジークムント・フロイトの診断によると、僕は「言葉を物そのものと取り違え、無感動でナルシストで、現実から切断されていて、転移をうけつけず、哲学者に似ている」とのことである。そういえば大学でも似たようなことを言われたっけ? 僕は自分がチヤホヤされていることにすっかり気をよくしてしまい(今思えばそんなことは全くなく、ただその異常っぷりにドン引きされていただけである)、「哲学に賭ける理想」とか「インテリが背負うべき使命」とか「革命の可能性」とか、まこと堅苦しい妄執から解放されるまでに随分と時間を無駄にしてしまう次第となった。ぶっちゃけ、田舎のドサンピンでしかなかった僕は有史以来最高の厨二病コンテンツとして名高い“テツガク”なるものにズブズブになっていたのであり、言うなれば「見えている世界が裏返っ」ていた。もっとも、G・W・F・ヘーゲルに私淑していた身からすれば、それこそ「哲学的観察者」の資格を幾らか具えていたのかもしれないが、そんな都合のいい話があるものか。結論だけ言うと、わたしの学生生活は“テツガク”含め何ひとつとして上手くいかなかったのであり、19歳の夏に始まった僕の狂気はいまや完膚なきまでに打ちのめされようとしていて、おまけに将来の行方も未定。院進は? アリだが、そもそも哲学を見失ってしまった僕に何ができるというのだろう(就職は? 勿論ノーコメント)。もはや「マイ・哲学的観察眼」を覚醒(笑)させる機会はないのだろうか。資本主義が普遍化し、能力主義が蔓延し、商業的職業訓練によって人々の思考が馴化されつつある目下の状況にあって、僕は白昼夢に青春を捧げたアホという烙印を押された挙句、いつの日か「リアル」によって文字通り押し潰されるしかないのだろうか。

 ちょっと待って、グロすぎませんかこの話? と思ったそこの貴方、そうなのです。現実というものは破茶滅茶にグロテスクなのです。そしてどこにも逃げ場はない。時間の蝶番はいつだって外れているし、かといってそれを正すことは誰にもできはしないのだ。ゆえにダイモーンの呼び声よ、さらば! 美しき魂よ、さらば! 絶対精神よ、さらば! 自由意志よ、さらば! 賽子任せの存在論的賭けよ、さらば! 以下同様、以下同様。と、このように慣れ親しんだジャーゴンをひとまずはポイ捨てする。そして青空の下で伸びをして一服。そう、「哲学」は決して万能などではない。時として、それはタバコ一箱の快楽にさえ満たないのだ。だけど、すっからかんにならなければ気付けないことが世の中にはいっぱいある。哲学書が「ただしく」読めたところで何にもならないこと。人生が本質的には頑張ってどうにかなるものではないのと同様、人文学の在り方を決めるのは都度の時代・地域、制度といったものであって個々の頑張りなどではないこと。“テツガク”なんて今更真面目にやってどうすんのさ。そう言われてしまうと、もはや何も反論することができないこと。「でも哲学は学問の王様で……」。嘘である。「どうせ真面目に生きてこなかったんでしょ」の一言で総括されてしまう言い訳をいくら並べてみたって無駄なのだ。リアルから逃避することはもうできない。じゃあ、リアルにしがみつきつつ「哲学」に拘泥する僕たちは何者なのか。はっきり言って、世間様からすれば「落ちこぼれの穀潰し」という評価がせいぜいのところ、インテリなんて呼び名はもう相応しくない。というか哲学って、なんというか、もっとこう、親しみやすいものではなかったっけ? それは意味不明な問いを立てることではないし、フツーの話でしかない主張を界隈でしか通じないジャーゴンで飾り付けることでもない。そうではなく、難しく考えることの意義はひとえに、それが「たのしい」ことにある。そういえばフランスの哲学者、G・ドゥルーズだって「興味」は真理にも勝るほど重要だと言っていたし、もとより僕としては哲学書がラノベのように読める日が来ればいいなと思ってきた。ほかにも、恋や料理や音楽や、ドラマや映画やアイドルとか、そういうコンテンツと並んで「哲学」が語られる日が来ればどれほどよいだろうか。万能でもなくても構わない。不可欠でなくても構わない。実のところ、そんな意義付けは取るに足らないものなのだ。僕たちは哲学をたのしくやる、ただそれだけである。もともと人間はそんなに真面目な生き物ではない。思想が前世紀におけるような地位を得ることは叶わないとして、それが何だと言うのか。過去の幻想やら尊大な自負やらに押しつぶされるより遥かにマシだ。「どうせ真面目に生きてこなかったんでしょ?」 はい、その通り。でも、真面目に生きるってそんなに大事なことかしら。不真面目な世の中で、不真面目に生きて、ど真剣にフィロソフィーをやる。コンテンツと化したそれを全力で「たのしいこと」へと仕立て上げる! サイコーではないか。素晴らしい試みである! やってみようではないか!

 そして生まれたのが、本企画『プロジェクト・メタフィジカ』である。

 『プロジェクト・メタフィジカ』は一個の賭けだ。この企画は「哲学」というコンテンツの求心力を爆上げするために誕生する。僕たちの存在論的前提、もといモットーは「リアル」がどれほどグロテスクでも、そこには“お遊び=虚構”が突き刺さる瞬間があるということ。それは真面目/不真面目を問わず、不可抗力の威力として訪れる青天の霹靂。革命だって茶番から生まれる。いまの“テツガク”に絞め殺された僕たちは、だから、これまでとはまったく異なるスタイルで「学」の道を探究することにした。後から振り返ったとき、いくつかの注目すべき出来事が思い出されることに期待して。堅苦しい分析、註釈、あるいは読解というものが要請されるのはまだまだ先のことである。何にせよ未来はきっと今より明るい。ということで、

爆ぜろリアル! 弾けろシナプス! バニッシュメント・ディス・ワールド!!

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