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「好き」に理由をつけずに

あなたは今ハマっていることはありますか?

夢中でもいいし、時間を忘れられるというもの。

今は無いけれど、昔…
子供や学生のころはあったよ、
という方もいるかもしれません。

あの頃、追っかけていたものはどこにいったのでしょうか。


理由を探してしまう

私はキャンプが好きです、とくに冬キャンプ。
虫の声は聞こえず、火と、あとは無音の世界。

あの「非日常感」がたまらなく好きなんですよね。


ただ、
キャンプは「準備」と「片付け」が大変なんですね。
テント、寝袋、食器、焚火台…
焦げついた鍋と延々と格闘しているときもあります。
それらも含めてのキャンプだと思うし、それに勝る面白さがあります。

その面白さを共有したくて、たくさんの人数でするようになると、
準備も片付けもなおさら大変になるんですね。
自分から誘っておいてなんですが、次第に「タスク感」が出てくるわけです。

いつにキャンプするから、連絡して、何を用意して。。。

忙しくなると、理由が欲しくなるものです。

何のために準備をしていたのか
何のためにキャンプをしたいのか

そうなると、つまらないもんです。

「好き」は分解すると形を変える

これは
「忙しいから」
「人を誘うから」
「やることが増えたから」
つまらなくなったのでしょうか。

もしかすると、自身の感情の捉え方が変わったからではないのか。

はじめはただ
「キャンプが好き」
「あの空間が好き」

それだけだったんだと思います。

そして忙しくなって、それに理由を求めた。
なぜ?と論理的な考え方をした。

でも、初めから理由なんてあったのでしょうか。

「やってみたい」
っていう気持ちだけだったんだと思います。

感情と論理は別物だと思います。
感情に理由を求めれば、それはもはや論理的なんじゃないかと。

論理的な思考は、目標達成のため、「正しい」と相手に思わせるための手段だと思います。

自分の感情を論理的に考えることは、
自分の感情が正しいことを証明しようとしているのではないか

と思います。

一体、何のために?

「僕がキャンプしたい」という気持ちをいったい誰に証明したいのでしょう。

もしかしたら、その裏には憧れや、プレッシャーやら、期待やらが隠れているのかもしれません。
でもそれを突き止めても、仕方がないし、
「あー、だからやってみたいんだな」
なんてモノにたどり着いた時、果たしてワクワクしているのか。

と思うのです。

だから、一番はじめの熱があって、刹那的な感情ってのがすごく大切に思います。
理由づけも、誰かに指示される必要もない、自分らしさが詰まっているような気がするから。
それを無理に人に伝えようとしたり、言葉にしてみると、少なからず形は変わってしまうように思います。


僕は今でもキャンプが好きです。
とてつもなく寒いことあるし、行ったことを後悔することもあるし、
山に取り残されることもあります(気を付けてね)

でも、それ全部ひっくるめて好きです。


あなたは今夢中になっていることはありますか?

そんなものが無いという人がいれば、何も考えず、理由付けもせず、やってみるのもいいかもしれません。

ありきたりだけど、その姿勢が一番「自分の感情」を動かすんだと思います。







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