嘘への『供物』
虹の沼からこんにちは!以前noteに『嘘解きレトリック』に見事に陥落しましたよという宣言をしたためたのですが、もうズブズブです。抜け出せそうにありません、末永くよろしくお願いいたします。
毎週毎週めちゃくちゃ楽しみだったのですがとうとう終わりを迎えてしまいました…なんで終わってしもたんや….ドラマを観終わったあとは自分でも感想を書いてタグをつけて投稿したりしたのですが、まだまだ書き足りない…『嘘解きレトリック』、ミステリとしてもガールミーツボーイとしてもボーイミーツガールとしても、そしてもちろんバディものとしても、全部の要素がめちゃくちゃバランスよく詰まった凄く素敵な作品じゃないですか!?
みたいなことをもしかしたら考えてるのは私だけかも知れないのですがもし他に1人でも同じようなことを考えてる人がいたら、せめて1人はここにいるぞということを記しておこうと思い、もう一度全話を通した感想をnoteに残そうと思いました。いや1人もいないかもしれないけどもしかしたらわたし自身が明日突然記憶喪失になってまた何も知らずに観はじめるかもしれないじゃないですか…そのときのために書いています。
原作ファンの方からみたら「いやそこはそうじやないんだよ…」と思われるところも多々あるかと思いますし、ことによってはミステリファンの方々からめちゃくちゃ怒られるかもしれないし双方向から針のむしろみたいなことになるかもしれないんですけど、それでも書き残しておきたい…自分のために…Xでしたのと同じ話を何度もしたり前後するところもたくさんあるかと思いますが、もし私以外に読んでくださる方がいらっしゃるなら、1人の人間の「狂い」の記録だと思ってお読みいただければと思います。「え…無理…」ってなったら普通にこのページ閉じてください。
はい、では始めます。
まずミステリファンの端くれとして言いたいことは『嘘解きレトリック』(嘘レト)はこちら側(視聴側)にめちゃくちゃフェアでいてくれたのではということです。
ミステリを読んでいる(観ている)とき時々個人的な所感として「さすがにそれは後出しジャンケンなのでは…?」と思うときもあるのですが(そこについては、わたしは大雑把な人間なので読んでて楽しめたらそれでいっか、となるのでそんなに気にしていませんが)『嘘解きレトリック』においてはその後出しジャンケンをすることが非常にむずかしくなる。
それは、浦部鹿乃子(鹿乃子ちゃん)の『嘘が聞こえる』という力によって、語り部である鹿乃子ちゃんが『嘘』を知るタイミングで同じ条件がこちら側にも提示されるからです。(『容疑者』が意図的に隠し事が出来ない・その意図はわからなくても隠し事をしていることが知れてしまう)
これはいわゆる『読者への挑戦』と同義なのでは?そしてこの鹿乃子ちゃんの持つ力の設定はミステリにおいてかなり画期的なことなのでは?!と思うのですがどうでしょうか。
そしてさらにわたしが凄いなと感じているのは探偵である祝左右馬(先生)は鹿乃子ちゃんに聞こえる嘘とは違うところでちゃんと真相にたどり着くヒントを得ている、しかもそれは『嘘』が分かるのより前の段階である、というところです。そのあたりのことも踏まえて感想文を記しておこうと思います。
(ここからたぶんめちゃくちゃ長なるし話が入り乱れてくると思います、ご容赦ください…)
『九十九夜町の名探偵』(1話)
先生の事務所の扉の『九十九夜町九十九番』という文字をみたとき反射的にベイカー街221B…!と思ってしまったのですがどうでしょうか?ストーリーの内容も初見時は『1話らしい1話だな』くらいの印象だったのですが、『緋色の研究』を上手く落とし込んでいるんだな、と何度か見るうちに気づきました。ホームズが示したのとは当然、全然違うやり方(?)言い方ですが(でもホームズがワトソンのことを次々と言い当てたように)先生の観察眼の鋭いことが丁寧に描写されているなと感じましたし、『緋色の研究』のポイントのひとつはミッシングリンクだとわたしは思っていて、それは『九十九夜町の名探偵』でいうと、1人の女給の失踪とタロちゃんの家出という一見関係を持たなそうな事柄が結果としてリンクしていた(せざるを得なくなってしまった)というところが、『緋色の研究』と本質的なところで似ているように思えたからです。
この回のキーになるのはタロちゃんが吐いた嘘(おつかいのお釣りを誤魔化す)ですが、鹿乃子ちゃんはそれを見破ることはできるけれど、その先にあるもの(タロちゃんがどうして嘘を吐いてしまったのかを)掴むことができない。それに対して先生は『くら田』の女将の持った布巾の柄を一見しただけでタロちゃんの嘘の理由に気づく。この対比がめちゃくちゃ上手くて唸ります…
そして、紛うことなきガールミーツボーイでありながら同時にボーイミーツガールである、ということもちゃんと初回で示されているとわたしは思います。
序盤、行き倒れる鹿乃子ちゃんを見た先生は「そんな面倒くさそうな女」と言って関わるのを避けようとします。
けれどこの回の終盤で鹿乃子ちゃんに「僕の助手になりなさい」と言う。
では先生の(心の)風向きはどこで変わったのか?
それはやはり「鹿乃子ちゃんがタロちゃんの『嘘』に気づいたこと」がきっかけであると思います。
事務所に戻った先生は鹿乃子ちゃんにタロちゃんの嘘にどうして気づいたのかと訊ねます。鹿乃子ちゃんはここでは自分の力を隠すために誤魔化してしまいますが、鹿乃子ちゃんにそのことを訊く先生の表情には『もしかしたら彼女も自分と同類なのかもしれない』という期待が滲んでいるように私には見えました。
そして鹿乃子ちゃんの力のことを知って『やっぱり同じだ』と思ったのではないでしょうか。鹿乃子ちゃんはその力のために故郷では忌み子のような扱いを受けていた。先生もその観察眼の鋭さから色んなことを知りすぎてしまうが故に疎まれることも少なくなかったのではないか、と思います。
鹿乃子ちゃんの嘘が聞こえるという力と先生のこの鋭すぎる観察眼は形は違えども『隠し事(隠したいと思っている気持ち)に気づく(気づいてしまう)』というベクトルは同じで、先生は出会ったばかりの鹿乃子ちゃんの姿に少し昔の自分を重ねたのかなと思います、そして彼女の力になりたい(以前の自分を救ってあげたい)そんな気持ちが芽生えたのかなと感じました。
『踊る令嬢誘拐事件』(2話)
ここでも先生は耕吉さんの口から嘘が語られる前(=鹿乃子ちゃんによってそれが嘘だと私たちに知らされる前)に『耕吉さんが脅迫文を持ってきたこと』自体に疑念を抱き、そこから真相を見抜いていくところも、余計なミスリードをせずにきちんとこの回の主題であるホワイダニットを描いているところがとても良いなと思います。(逆にミスリードが上手いな…と唸ったのは4話と8話です)そしてそのことにより、藤島家の人たちと耕吉さんとのこれまでに築いてきた信頼関係が浮き彫りになる。サブタイトルに『踊る』とついていて、なんとなく『踊る人形』(うろ覚え)のパロディ(オマージュ?)なのかなとも思いました。(踊る人形はその暗号を対象者のみがしっていたという話だった気がしますが嘘レトのほうは千代さんだけが脅迫文について、それが来ていたこともその内容もまったく知らないというところが上手く反転してあるな、と感じました。)この回の終盤でも先生は千代さんのお父さんと「君は嫌われたことがあるかね?」「ありますよ、僕はいろいろと厄介なので」というやり取りをサラッとですがしていて、やっぱり何か抱えた人なんだな…何話くらいでそれが分かるんだろう…とこのときは考えていました。あとこの回で先生と鹿乃子ちゃんの間の『ウソ』『ホント』の合図決めてるのメッチャ良かった…2人の間だけで成り立つコミュニケーションが最高に好き…
『松葉牡丹の君』(3話)
先生は鹿乃子ちゃんの力とは別のところでちゃんと自分の目により嘘を解く鍵を見つけている。
そして鹿乃子ちゃんの力が嘘を解く鍵になるときは、それは鹿乃子ちゃん自身が成長するときである、と私は考えていてこの回がその最初にあたると思うのですが(わたしは3話・6話・8話がそれにあたると認識しています)ちょっとその前にこれだけは言わせてください、先生が鹿乃子ちゃんにプロポーズします。先生が鹿乃子ちゃんにプロポーズします。それだけでもこの回は見る価値がある。…いややっぱり違います。全然それだけじゃないです、なのでちゃんと全部見てその目に焼き付けてください。何を焼き付けて欲しいかというと(もちろん先生のプロポーズもですが…)初めて鹿乃子ちゃんが誰かのために、前向きな形でを使いたい、と思い立って自ら行動をとるその姿です。(1話のタロちゃんのときはまだ『自分のせいで』という気持ちが強かったように思います。)
先生の鹿乃子ちゃんに対する、君は縮こまらなくて良いのです、という言葉や、探偵助手として申し分ない働きでした、という言葉がちゃんと鹿乃子ちゃんに届いていて、そのことが鹿乃子ちゃんの背中を押してくれている…(感涙)
そしてこの回で特徴的なのは先生が嘘を吐く、出題者側(容疑者側)に回る(答えをあらかじめ知っている)というところです。もちろん先生が嘘を吐くと同時に鹿乃子ちゃんはそれを知ることになるのですが、それも全部先生の意図するところだった、というところが秀逸だなと思います。
先生の嘘は友人である端崎さんを傷つけないための嘘ですが、なぜそのような嘘をついたのかを終盤まで鹿乃子ちゃんに明かさなかったのはどこかにこの件の決着を鹿乃子ちゃんに託してみたいという気持ちがあったのではないか、と思います。
端崎さんに「知らない」と嘘を吐く前にみせた表情や、端崎さんの探し人(松葉牡丹の君)を端崎さん自身が捕まえることになってしまったあとに、鹿乃子ちゃんには見えないところでぐっと何かを堪えるような表情をしているのを見て、たぶんこういうこと(先生は端崎さんを傷つけないための嘘を吐くけれどそれが結局端崎さんの知るところになってしまうということ)はこれまでにも何回もあったんだろうなと思いました。端崎さんはそういう先生のことを(きっと先生の優しさだと理解していて)受け入れているけれど、そういう人ばかりではなく誤解されたりこじれたり離れていったりした人もたくさんいたんだろうな…
鹿乃子ちゃんの知らないところでその道筋はお膳立てしながら、最後のところで鹿乃子ちゃんに茶托を渡したのは自分のやり方ではない方法を彼女なら示してくれるかもしれない、と考えたのではないかと思います。
『先生が嘘を吐いた理由』について鹿乃子ちゃんが最後に先生に直球で訊いてきたとき、ふっと先生が笑ったのは、そこで『こういうやり方もある』(相手に直接話してみるという方法もある)と思えたからではないでしょうか。
鹿乃子ちゃんは自分の力を先生は気味悪がらずに受け入れてくれている、と言いますが、それは先生にとっての鹿乃子ちゃんの存在も同じではないかと思うのです。
先を見すぎる、色んなことに気づきすぎる、そんな先生の言動は多分疎まれたり、10話で先生自身が「本当のことを信じてもらえないほうが面倒なんです」と言っていたように、信じてもらえなかったりすることも多かったはずで、本当のことを本当と、嘘を嘘とはっきり聞き分けられる鹿乃子ちゃんのことを先生も必要としているのではないかなという気がしましたし、だからこそ鹿乃子ちゃんへの「受け入れる」「一緒に抱える」(=自分も同じようなものを抱えているから、共に分かち合いたい)だったのかなと今は思います。
お互いがお互いにとって唯一無二…わたしはそういうのが大好きです…
『人形屋敷の怪事件』(4・5話)
冒頭から先生と鹿乃子ちゃんのコンビネーションプレイが冴え渡っていてバディ感が増したように感じられてとても最高ですし、3話を経て先生と鹿乃子ちゃんの関係が1歩進んだものになったんだなとわかってそこもとても良いなと思いました。
この回は本格ミステリへのリスペクトをとても感じました。そして横溝作品全体へのオマージュ(女性が絡む因習もの)を意識しているのかなと個人的に感じたのですがどうでしょうか。それにミステリらしい『記号』もちゃんとある。それがどれにあたるかはたぶん各々で意見が分かれる気がしますが…
トンネル(彼岸と此岸をつなぐもの)を抜けた先にあるのは人形屋敷(彼岸)で、そこでは人形も食事をする (ように見立てられている)。それはそこでは人間も人形も区別は不要という風にも捉えられるのではと思います。
この回において『くら田』が出てこないというところもわたしは『記号』のひとつであると考えています。出てこない(出さない)ということによって先生と鹿乃子ちゃんが「生きている」という証(此岸・生者だけが集う場所)が奪われている(人形との境目が曖昧になる)と言い換えることもでき、その代わりに先生が口にする「お腹空かない?」が「自分たちは生きた人間である」というサインのようなものになっているという印象を受けました。
本格における探偵の『終わらせる』(「異邦人」・「招かれざる客」=先生と鹿乃子ちゃんが)因果を断ち切る、いわゆる憑き物落としをするという古今東西の名探偵達が担ってきた役割も明確に記号化され描写されていると思いました。
そして4話の序盤、鹿乃子ちゃんが品子さんの『嘘』に反応するずっと前に先生は品子さんの言葉から品子さんにまつわる絡繰に薄々気づいている。(「鹿乃子君は自分のこと『私』」って言うねえ)しかもそれはわたしたち(視聴者)にも掲示されていた。そのフェアさに感服しました…
最初に冒頭のコンビネーションプレイがとても良かった、と言いましたが、コンビネーションプレイは冒頭だけでなく、この『人形屋敷の怪事件』の回の随所に散りばめられています。先生と鹿乃子ちゃんという2人組で動くことは意外と少なく、(だからこそ夜の縁側の2人きりの、鹿乃子ちゃんが心の内を先生だけに吐露して、それに対して先生がまためちゃくちゃ優しい言葉をかけるところがめちゃくちゃ良いな…ともなったりするんですが、それはそれとして)雅さんや品子さんを挟んだやり取りが多い中でアイコンタクトや合図という「先生と鹿乃子ちゃんの間でのみ成り立つもの」で「話して」いるところがわたしはたまらなく好きです。5話で、先生は隠された品子さんを探すために、鹿乃子ちゃんは離れで品子さんの動向を見守るために、別々に行動をとるのですが、そこで鹿乃子ちゃんの独白に先生が(実際に言葉をかける相手は鹿乃子ちゃんではなくても)「大丈夫」と話しかけているように見える演出が刺さりまくりました、あれはもうダメ、なにがダメってわたしがダメです。わたしはそういうの(離れたところにいても通じあっているみたいな演出が)もうメッチャ好きだから…ここでこのドラマに陥落しました。(4話を偶然見たことがわたしと嘘レトの出会いなので……)先生、「大丈夫」ってなにが大丈夫なのですか?わたしの情緒は全然大丈夫じゃなくなりましたが…
『少女探偵団の冒険』(6話)
プロポーズって何回してもいいんだなと学びました。
この回で描かれるのは『助手役の失敗』ですが、ただそれだけに留まらない、というところめちゃくちゃ良いなと思っています。
ミステリで助手(役)が失敗するときってとんでもないことが起こったりするじゃないですか…助手(役)自体が襲われたり、その助手(役)が(探偵にとっては)見当違いの人を容疑者だと仮定して動くことによって誰かが大怪我をしたり殺されたりだとか…夢中で読んでるときは面白いなと思いながら読んでるのですが、ふとしたときに、いや二次被害がすぎるくない…?それに助手役の担うリスク大きすぎでは?と思ったりもします。そして探偵役が意外とその助手役の失敗に対してドライ。そこそんなサラッと流してもええんか?それに両方ともこの失敗についてあまり反省がない…そんなあっさりしててええんか?!展開的には仕方ないのも、そのとき説明できない理由もわかるけどあんたがもう一言くらい助手に声かけたってたらこんなことにならんかったかもしれんやん…もうちょっとコミュニケーションとりぃや…とも思うところも正直あります。
先生と鹿乃子ちゃんの間には(鹿乃子ちゃんの力の設定もあって)それがない。先生は鹿乃子ちゃんに隠し事をしない。したくないという強い意志を感じます。それが本当に良いなと思いますし、めちゃくちゃ好きです。
先生が鹿乃子ちゃんに対して嘘を吐くときは必ず先生の意図があり、鹿乃子ちゃんもそのことを3話を経て理解している。
だから嘘レトにおいては助手役の失敗というのは極めてレアケースなのではと思います。
6話のテーマは人探し、そして鹿乃子ちゃんが抱えてしまうことになった十字架についてですが、この人探しに関して先生は該当人物のヒントを与えるのみで積極的に関わっていこうとしない。だからこそ鹿乃子ちゃんがメインで動くことになるのですが、鹿乃子ちゃんを送り出すときの先生の「鹿乃子君がいれば大丈夫でしょう」という言葉は決して気休めではなく本当にそう考えていることが木霊がかからないことによってより一層鹿乃子ちゃんに深く届いていて、そしてその先生の鹿乃子ちゃんへの信頼は間違いなく人形屋敷での鹿乃子ちゃんの、先生が戻ってくるまで全員を帰すことなくその場をしのぐという働きにより、より確かなものになっていっている…
この人探しで鹿乃子ちゃんは間違いを犯してしまい、それにより鹿乃子ちゃんの抱えることになった十字架が明らかになります。それは村を出る前に言われた「あんたが嘘を吐いてないってどうやって証明するのよ」という「悪魔の証明」ですが、先生が今までしていたことはこれだ…この証明だ…とこのとき気付きました。
先生は誰よりも先に『鍵』に気づくけれども、先生の解き明かす真実は必ず鹿乃子ちゃんに聞こえた嘘とリンクしており、それを先生がひとつずつ紐解くことによって、鹿乃子ちゃんの力が「存在している」ことの証明になっている…
これってすごいことじゃないですか?
先生の紡ぐ『修辞(レトリック)』は鹿乃子ちゃんに聞こえた『嘘』に捧げるためのものなんですよ…『嘘解きレトリック』というタイトルの回収のやり方が素晴らしすぎる。
そしてこの回で鹿乃子ちゃんが自分自身で「自分には嘘が聞こえるからこそ見えていないものがある」と気づくところがすごく良いですし、間違いについてちゃんとごめんなさいと頭を下げるところも本当に良いな…と思います。(ここをスルーするミステリ結構ありませんか?そのたびに「ちゃんと謝りや…」と思っちゃう…)
そして鹿乃子ちゃんを迎えに来た先生がわざと嘘をつき「鹿乃子ちゃんにしかわからない形」で「ここにいてほしい」と伝えること、なんて優しい証明のやり方なんだろうと思いましたし、先生にしか見せることの出来ない愛のかたちだ…となりました。そしてそこから続く「一緒にいればいいんだよ」という流れ….素晴らしいプロポーズをありがとうございます…そう、プロポーズなんか何回やってもええんやで….
『呪われた幽霊屋敷』(7話)
人形屋敷の回が本格ミステリへのリスペクトであるならばこの回はアンチミステリへの誘いですね。
ポイントになるのは先生も鹿乃子ちゃんも事件の真相を握る女性には会っていないこと、そして先生自身が冒頭で述べた「偶然だよ」という言葉をラストで「まるで誰かの意思が働いたみたいじゃない?」と否定しているところではないでしょうか?
先生と鹿乃子ちゃんが鍵となる女性に会っていないということは、その女性の話していることの何が嘘で本当であるのかというところが判明しないまま、ということになります。女性の口からは一応真相「らしきもの」が語られますが、事件の真相を知るのはもうその女性しかおらず乱暴な言い方をすれば彼女の思うままに語ることができ、それを本当だと証明することも嘘だと糾弾することももうできない。「あの時何があったのか」は闇に葬り去られてしまった、それは言い換えれば何通りもの推論を展開できるということでもあり、これこそがアンチミステリの入口なのではないでしょうか。このタイミングでこの話を持ってくることに「いろんなタイプのミステリをカバーしてやるぞ」という制作陣の意気込みを感じました、好きです。
それにしても幽霊屋敷のことを先生が調べるきっかけになるのが「しょんぼりした鹿乃子ちゃんを励ますため」なの先生が動く理由が鹿乃子ちゃんのためであるということがめちゃくちゃはっきり現れてて最高だな…と思いました。
『消えた十人の客』(8話)
まずサブタイトルがオシャレで好きです。わたしはこういうタイトルが大好きなんだ…
3話で苦い思いをすることになった端崎さんがここにきてちゃんと報われて本当にうれしいです。
この8話は3話との対比であると同時に6話の鹿乃子ちゃんの「自分には嘘がわかるからこそ見えていないものがある」という気付きがちゃんと生かされていて、そこが良いなと思います。
そしてなにより先生と鹿乃子ちゃんが「バディ」になる回…!
思い出してください、3話、先生は自分自身で事実確認をしたのちに鹿乃子ちゃんにお遣いを頼み、そしてこっそりそのあとについていっていたことを…8話ではそうではなく、正真正銘先生は鹿乃子ちゃんに事の次第をすべて「託し」ます。それが鹿乃子ちゃんを見送ったあと、一旦は鹿乃子ちゃんのあとを追いかけようとドアノブに手をかけるもそれをぐっと堪える(ここの先生の表情が最高に良い…)仕草にすべて表れています。これです、ここです。このときに先生と鹿乃子ちゃんは「バディ」になりました、素晴らしいです。
この回で鹿乃子ちゃんはもしかしたら嘘が聞こえなくなったかもしれないという不安に苛まれるのですが、それでも先生や端崎さんがしているように)傷つくのを覚悟で誰かを信じてみることに「飛び込んでみたいです」と言って端崎さんが駅で電車賃を貸してあげた女性を探すことを「自分で」決めます。先生はその鹿乃子ちゃんの背中を「やってみなよ」と優しく押してからのさっき述べた「バディ」誕生の瞬間を迎えるのですが、鹿乃子ちゃんが事務所を出る前にちゃんと捜査をするときのポイントを先生に訊いているところも良いし、そこにはちゃんと6話で得た「自分には見えていないものがある」という気付きを、だから自分には見えないものが見えている先生のやり方を真似してみるという行動に繋げていて心を打たれました…
そして先生は先生で鹿乃子ちゃんのこの飛び込んでみたいです、という言葉がとても嬉しかったのではないでしょうか。
先生は多分3話で見せたように先回りするやり方や、これ以上端崎さんが傷つかないように嘘を吐き続ける、そしてもしバレたときはその責を先生1人で負う(泥を被る)といったやり方しかできなかったのではないかな、と思います。でも鹿乃子ちゃんが選んだのは先生と同じように詐欺の可能性も頭にいれつつ、それでも端崎さんと同じところに立って信じてみるという方法でそれは先生には「できない」やり方だったからこそ、やっぱり改めて自分には鹿乃子ちゃんのことが必要だ、と感じたのではないかなという気がしますしだからこそあの柔らかな夕日のなかでの「君という人がいてくれて、僕は幸せ者ですね」という言葉に繋がったんだな…と思います。バディ…背中を預けることができて、自分にはないやり方で導いてくれる…鹿乃子ちゃんにとっては先生は最初からそんな存在でしたが、先生にとっても鹿乃子ちゃんがそういった存在である、ということがこの回で明確にされてしまった…紛うことなきバディ(誕生)回…
書き付けの一件についてもミスリードが上手くそして少しシニカルで良いなと思います。鹿乃子ちゃんに嘘が聞こえなかったのは全員本当のことを言っていたから、というシンプルな理由なのですが、この逆のパターンの「全員が嘘をついている」はミステリの王道ですよね、そして全員に嘘を吐く動機があるという…それをこの回では反転させている。そこにちょっと従来のミステリのミスリードというものへの皮肉も感じましたが、こういう皮肉、わたしは好きです。そしてそれが「では、なぜ?」というところを際立たせている。しかもその上で「誰も悪くない」(誰も傷つくことがない)という結末に落ち着くところに唸ります。
そして嘘が分からなくなっても先生の助手でいたい、と鹿乃子ちゃんが先生の判断を仰ぐのではなく「こうしたい」と思えるようになったこともすごく進歩だと思いました。
『幻の遺産相続人』(9話)
初見時本当に幻覚を見たと思いました。虹の沼の底でわたしが色んな推しCPで見てた幻覚が堂々とテレビ画面に映っていたので…そのあたりはもう何も言わなくても良いかと思います、最高なので、本当にそれに尽きるので…
でもこの回の最高なところはこれだけじゃないんですよ…
まず、徳田史郎という人物をこの回で登場させたことに「出し惜しみはしません」という制作側の気概を感じて「イイネ…」となりました。これは恐らくわたしの考えすぎだと思うのですが徳田史郎(TOKUDA SHIROU)という名前のアナグラムにするとUSOTUKIと文字がはいっているのは何か意味があるのでしょうか?
この回は論理パズルが光る回だなと思います。
徳田史郎、という名前が偽名であることは開始早々判明するのですが、先生のフックになるのは「皐月の背守り」のことを今回の依頼人である実原夫人が隠していたことなのがめちゃくちゃ上手いし納得しました。実原夫人の依頼はどちらが自分の孫に当たる人物かを見極めてほしい、というものですが、確かに名前が偽名だからってそれが偽物であるという証拠にはならないですよね…
この「実原夫人が自分の知る情報を、しかもどちらが孫かを見極める上で重要な位置にあるものを黙っていた」というところから先生が繰り広げる論理パズルがもう「9マイルは遠すぎる」です。そしてそれにちゃんとついていってる鹿乃子ちゃんもすごいし、その鹿乃子ちゃんを見つめる先生の目があからさまにものすごく嬉しそうで満足そうで「い、いや、もうわかった…わかったから…///」ってなりました。
そして史郎さんのことを警戒する先生がとても美味しいと思いました。「鹿乃子君は何も知りませんよ」と言ったときそこには当然木霊が鳴るわけですが、この木霊が鹿乃子ちゃんへのサイレン(史郎さんには気をつけなさい)の役割を果たしているところが最高…そしてそれは先生と鹿乃子ちゃんにしか分からない…最高…
先生と史郎さんは相対する存在なんだろうなとも思いました。自分とよく似ているとお互い思っているからこそ先生はあれだけ警戒していたのだと思うと堪らないな…となります。
『予期せぬ訪問者』(10話)
このタイトル、話の前半ではもちろん鹿乃子ちゃんのお母さんのことを指しているのですが、後半においては鹿乃子ちゃんのことを指しているの、オシャレですよね…こういうタイトルがわたしはとても好きです。
この回で先生が紐解くのは1話の冒頭、鹿乃子ちゃんが村を出るときにかけた、鹿乃子ちゃんのお母さんの「辛かったらいつでも帰ってきていいんだからね」という言葉なのですが、それをはじめとして、この回で出てくる嘘がすべて「鹿乃子ちゃんのことを思ってのもの」である、ということがこの作品のもつ優しさを象徴しているようでとてもグッときました。そしてこの鹿乃子ちゃんのお母さんの言葉の『嘘』を優しく紐解くのが先生の嘘のない『本当の言葉』なのめちゃくちゃよくないですか…鹿乃子ちゃんがいないから先生が仮に嘘を吐いていたとしても木霊がかかるわけではないですが、先生がここで嘘を吐くわけがないじゃないですか、ほかの誰でもない、鹿乃子ちゃんのことで先生が嘘を言うわけがない…先生の言う「鹿乃子君はちゃんと全部聞いてくれる人ですよ」という言葉にはきっと『嘘』も『本当』も『嘘を吐いたわけも』という意味も含まれていますよね…
嘉助くんの「本当のことを言っても信じてもらえない、だから嘘を吐いて騙すしかない」という言葉に鹿乃子ちゃんが以前言われた「あんたの言ってることが嘘だってどうやって証明するのよ」という言葉を思い出しましたし、先生が鹿乃子ちゃんのお母さんに向かって述べる「僕は嘘を暴かれるより本当のことを信じてもらえないほうが面倒なんです」という言葉で、先生も昔、嘉助くんと同じような経験をしたことがあるのだろうな、と思いました。嘉助くんに関わり実際言葉をかけるのは利市さんであるというところにも、(利市さんの自分も似たような目によく合うという言葉であったり、自分にできる最大限のかたちで嘉助くんに手を差し伸べたりするところが本当に素敵だなというところは大前提のうえで)もしかしたら先生にも嘉助くんにとっての今回の利市さんの存在にあたるような人がいたのかもしれないとそんな風に思いました。
どうしても鹿乃子ちゃんに嘘を吐きたくないという気持ちと九十九夜町の人達(特にタロちゃん)の気持ち(鹿乃子ちゃんをサプライズで喜ばせたい)の間で板挟みになった先生が、その場を自分一人が責を負う形でその場を収めるところにまたフィリップ・マーロウが重なって見えたのですが(そしてそれは11話でより強くなるのですが)、鹿乃子ちゃんにだけはちゃんと先生の本当の気持ちが伝わっているということこちら側に分からせる演出…もう、え、え、え、演出〜!(最高)となりました。
『スズランの手袋の謎』(11話)
最終話ではない、これは11話です。
冒頭、スズランの手袋を見て目を細める先生はもうここで、蘭子さんが偽名を名乗るまえに「何かある」と気付いていますよね。
11話にこのストーリーが持ってこられたことにもちゃんと意味がある、とわたしは思っていて、それは鹿乃子ちゃん自身の気持ちの自覚もそうなのですが、1話との対比でもあるのではないでしょうか。何か「事情」を抱えていて元の居場所には戻れなくなった(戻りたくないと思っている)、自分を偽っている、という点においては1話の時点の鹿乃子ちゃんと相似しているな、と感じました。
1話で鹿乃子ちゃんは「嘘を吐くなと言っておきながら自分は嘘を吐いた」と独白し、力のことがバレると九十九夜町に留まることはできない、と考えて終盤まで先生にも自分の力のことを隠しています。
11話、蘭子さんの心の1番奥にある感情を暴いた先生は言います。
「ずっと嘘を吐き続ければ良いんじゃないですか」
これは凄まじい言葉だとわたしは思いました。
これはもちろん、蘭子さんに向けられた言葉ではあるのですが、『嘘解きレトリック』というタイトルの元において「嘘を吐きつづければ良い」と言うことはかなりハードボイルドではないでしょうか。先生はこれまで嘘を解き続けて(真相を明かして)きました。それは鹿乃子ちゃんの力の証明にも繋がっていた。嘘をどのようにして紐解くのか、というところを描いてきた物語の最後にその役割を担い続けていた人の言う「嘘を吐き続ければ良い」という言葉はかなり重みがあるとわたしは思います。だってこれはもはや『罪を犯した探偵』『向こう側に渡った探偵』じゃないですか…
それなのに、先生が自分自身がこれまでしてきたこと(嘘を解き明かす)とは全く逆のこと(嘘を解いた上でそれを知らないふりをする)をしているにも関わらず、先生がそう告げることに矛盾はない、と感じました。
先生のレトリックは鹿乃子ちゃんのためのものである。これは揺るぎないことだと思います。けれど鹿乃子ちゃんはもう『解き明かさなくても良い嘘』があることを理解していて、今回の蘭子さんの『嘘』を先生が白日の下に晒すことをしなくても納得してくれる、と先生が信じたからではないでしょうか。
そしてこの「嘘を吐き続ければ良い」は1話の鹿乃子ちゃんの独白へのアンサーなのでは?
先生のこの言葉は「全ての嘘を許容する」という意味では決してなく、その『嘘』をずっと抱えていくという覚悟があるならば、そういう選択肢もある、といった意味合いであるとわたしは捉えていて、鹿乃子ちゃんは1話のあのとき自分の力のことを隠し通そうとしていた、先生のこの言葉はあのときの鹿乃子ちゃんへのそれでも良いよという肯定でもあるように聞こえました。
あと先生がこれを言うときになんだかやたら実感がこもっているな…と感じたのですがどうでしょうか。「嘘でも幸せを願い続ければ良い」ってそれは先生のなかで特定の誰かを想定しているのでしょうか?だとすればもうわたしには鹿乃子ちゃんしか思い当たる人かいないのですが…先生はもう鹿乃子ちゃんが自覚するより前から自分の気持ちを自覚しているとわたしは考えてるのですが(蘭子さんに「先生には一緒にいる人がいるしね」と言われたときの先生の表情や、栗料理で何が好きですか?と聞かれたときに「栗羊羹」と答えるまでの間、そして目線…)鹿乃子ちゃんに気持ちを伝えることはしないでおこうと思っている節があるのでは?鹿乃子ちゃんが自分のことを慕っていることは伝わっては来ているけれどそれが「助手として」だった場合、自分の気持ちを伝えることで鹿乃子ちゃんが先生と気持ちに応えられない…と考えて事務所に居づらくなり自分の前から去ってしまう可能性も考えてしまったのでは?そしてそうなるよりはずっと近くにいてほしいからこそ自分の気持ちは伝えないでおこう、と思っているのでは?だからこそ 「嘘でも幸せを願い続ける」という言葉が出てきたのでは?それは先生の中で『嘘』にならない(鹿乃子ちゃんに木霊が聞こえない)ギリギリのラインのところにあるものだったのでは?そのへんどうなんですか、先生…
そしてラストシーン、これまでの各話の『ゲスト』が再登場して写真を撮るシーンが本当に好きです。
ミステリにおいて『記号化』されやすい『ゲスト』に対して『そうではない、みんなちゃんとこの物語のなかに息づいている』と言ってもらえた気がして、そこにまたこの『嘘解きレトリック』という作品のあたたかさが滲んでいる気がしてとてもうれしかったです。
…ここまでお付き合いくださりありがとうございました、そしてお疲れ様でした…すみませんまだもうちょっと続きます…
結局先生の履歴は明かされませんでしたね…
でも『嘘解きレトリック』はフェアな作品です。(少なくともわたしはそう思っています)先生の履歴が明かされなかった、それ自体がもしかして『読者への挑戦』なのではないでしょうか?これを解くために必要なものはもう既に開示している、それを根拠に当ててみろ、という…
そして『挑戦』には『解答編』がつきものだと思うのですがどうでしょうか?
また九十九夜町で先生と鹿乃子ちゃんそして町の皆と出会えるときを心待ちにしています。