ラブレター 24/10/15
わたしは晴一さんの歌詞が好きで、心酔している、と言っても過言ではないと自分でも思います。
けれど、昭仁さんの歌詞にも心を鷲掴みにされている。晴一さんも昭仁さんも自分の言葉と世界を持っている人たちで、わたしはその両方がとても好きです。
昭仁さんの書く歌詞は本人のパブリックイメージとも相まって、力強く、明るくポジティブという印象がなんとなくある気がするのですが、もちろんそういう歌詞もたくさんあるし、わたしもそういった言葉ににすごく励まされた思い出もある、でもそれだけじゃないんだよ…!昭仁さんの描くものもとても多彩ですごいんだよ…それを知ってほしい…と思い立ち、昭仁さんのお誕生日おめでとう記念にこれを書くことにしました。
「僕自身は爽やかな恋愛をするタイプです!」
これは20周年の東京ドームのときに『見つめている』という曲を披露する前に昭仁さんがMCで言っていたこと(笑いを誘うことができて満足そうな顔をしていてとてもかわいかったです)なのですが「あんなに生々しい歌詞を書いておきながら…?!」とわたしはちょっと戸惑ってしまいました。
当時ストーカーという言葉やそう呼ばれる人達が引き起こす事件がニュースを騒がしていてそれを参考にして書いたということや一発噛ましてやりたかった、オカノアキヒトやりまっせというところを見せたかったみたいな発言もされていたし、それはその通りだと思うのですが、ただでも、
それだけでこんな歌詞書ける?!ってなりませんか?!すごく生々しくてそれが怖…ってなりませんか?!わたしは、この曲のすごいところは「リアルな気持ち悪さ」だと思っているのですが、いま引用したところは正にこの曲の核というかこの「リアルに気持ち悪い」というのがギュッと凝縮して表現されていると思います。
まず「昨日観た夕方のドラマ」で「ドラマ」の内容や登場人物に「僕」と「君」の思い出を重ね合わせたりするのかなと思いきやそういったことには一切触れずに「ラストシーン すごく泣けたんだ」だけ。しかも歌い方からして全然泣けるとか思ってないんだろうな…っていうのが伝わってくるしそのうえで、「これは関係ない話じゃない(中略)わかってんだろ」と(歌詞における)現実に引き戻してくる。この「わかってんだろ」がゾッとしませんか…たぶん「僕」にとってはドラマの内容なんてどうでもよくて「君」がその時間にドラマを観てたことを「僕」は知っているんだぞと「分からせる」のが大事なことなんですよね。
なんでわたしが昨日仕事が休みで夕方のドラマの再放送観てたこと知ってるんだろう…?このドラマって付き合ってるときやってなかったよね?夜ご飯友達と食べに行くことも突然決まったことだしあのときいたメンバーしか知らないはずなのに…そういえばシンクにコップ置きっぱなしになってて洗うの忘れてたかなって思ったけどあれは友達がきたときに出すやつでわたしのコップじゃない…あれ、でも別れるときちゃんと鍵返してもらったよね…?くらいまで考えたらところでくる「わかってんだろ」…こわすぎませんか?
そういう感情(?)思考(?)の流れが無理なく伝わってくるというか「解って」しまうのすごくないですか?
この曲の「僕」は 「君(多分元カノ)」に対して何もアクションしないまま終わるんですよね。相手に対する執着や自分の心情は述べるけど、だからどうしよう(する)ということはない。直接何かを「伝える」ことすらしない、それどころか「思い切って好きといえばいいさ」と相手から「好き」と言ってもらうのを待ってさえいる。(これも聴いていれば分かると思うのですが可能性は0%です)
送る視線は熱っぽく粘着質なのに自分では何も行動しておらず、そして相手は自分のことを好きだと思い込んでいるその思い込みの強さ
言ってしまえば陰湿そのもので、これが「リアルな気持ち悪さ」の正体だと思うんですけど自分にその素養が全くない(これは本当にそうなんです)(謎の断言)のにここまで描写できるの凄くないですか?!
(これは完全に余談なのですが、同じ系統の気持ち悪さの曲として(その系統何?)(※わたしが勝手にカテゴライズしてるだけです)『ドリーマー』という曲があります。(アルバム『Thump χ』収録)こちらの作詞は晴一さんなのですが、こちらの曲の主人公は一応「夢の中」という制約つきですが「夢の中でくらい 君のことを穢してやる」と「アクション」を起こしています(善し悪しはまた別として…)こういうところに晴一さんのストーリーテラーというか作家らしさというのを感じるしこういう両者の違いに気づいたときにわたしはめちゃくちゃ興奮してしまいます…)
なんでそんなことまでできるんだろう?
(いやプロなんだからそれくらいは出来るのでは?と言われたらそれまでなのですが後生なので語らせてください…)
それは昭仁さんが普段から「晴一さん(自分ではない誰か)が書いた歌詞に自分の感情をのせて歌う」ことをずっとし続けているからではないでしょうか。
『見つめている』はサウダージのカップリングとして収録されているもので、(当時からすれば)デビューして1~2年しか経っていないのにそんなことができたのか?と疑問を持たれるかも知れないんですが、昭仁さんにとってはそれ(晴一さんが綴った言葉を歌にすること)はインディーズの頃からしていることで、サウダージの頃にはもうそこまで意識しなくても出来るようになっていたのではないかなと思っています。(めちゃくちゃ個人の見解です)
晴一さん(作詞)→昭仁さん→わたしたち(聴き手)という流れがあり、わたしたちに晴一さんの言葉がどう届くのか(晴一さんが昭仁さんのことをめちゃくちゃ信用してるのは火を見るよりも明らかですが…)は昭仁さんがどこまで咀嚼してくれるか、そして表現してくれるか、というところにかかっていると思うのですが、これめちゃくちゃ難しいですよね…晴一さん(『歌詞に名前が書いてある』と言われるような人)のつくった世界観をこわさないように再構築しつつ自分の感情ものせて歌う…いやどうしたらいいの?!ってなるんですけど昭仁さんはそれを自分の役割として、当たり前のこととしてやってくれている
そしてそれをするためには共鳴(共感)するセンサーのようなものが必要不可欠なのでは、と思うのです。
それは引っかかりを覚えたところ(自分が僅かでも共感もしくは理解できるとなったところ)を起点として、あらゆる感情を増幅させることができるものだとわたしは認識しています。(昭仁さん自身が「最初から何でもかんでも理解できてると思わんでくださいね!最初はなんか失恋したんやな〜くらい!」と言っているとおり、レコーディングをしていくうちに徐々に加速する感じだとは思うのですが)
それが昭仁さんのボーカルとしての表現力に生かされていることは誰の目から見ても明らかだと思います。(えっ…そうですよね…?)
昭仁さんの共鳴するセンサーは破茶滅茶に感度が高く、しかも昭仁さんはそれを自在に操ることが出来るのではないかとわたしは感じています
その共鳴するセンサーを(意識していないかもしれませんが)自分には素地のない感覚や心情を謳う曲の作詞をするときも働かせているのではないでしょうか?
わたしが感じている昭仁さんの歌詞の特徴のひとつに「昭仁さん」(歌い手)と「わたしたち」(聴き手)の「距離の近さ」があるのですがそれは上記のような理由からではないでしょうか。
それに加えて昭仁さんの歌詞は「僕」と「君」(あなた)の二者間の世界、もしくは「僕(の君への好意・未練・愛情)」を描いていることが多い。
そしてこれらの要素が混ざりあうとどんな化学反応が起きるかというと『存在しない記憶』(©️呪術廻戦)が生まれます。
『見つめている』の「わかってんだろ」で「気持ち悪…」「怖…」といった感情に見舞われるのは、ストーリーの流れのなかで必然なことでもありますが、そこで「僕」の視線を(自分は物語の観測者として聴いていたのに)直接自分に向けられたものとして感じてしまうからではないでしょうか。
晴一さんの歌詞にも、もちろんたくさん「僕」と「君」を描いてるものがあります。それは『作品』としてとても美しく完成されたもので聴いているわたしたちは第三者的(神の視点とも言えるかもしれません)な立ち位置でその物語を堪能することができる、晴一さんが緻密につくった余白に思いを馳せることができる。それは、感覚としては「没頭する」というところが近いかなと思います。それでいうと昭仁さんの書いたものは「引きずりこまれる」という言葉が近い気がします。
肌触りとしてはなんというかどこか、とろり、としたものがある。
この、とろり、とした感じというのが昭仁さんの歌詞が持つリアルさ、距離の近さに繋がっている気がします。たぶんそれは、「僕」のなかでうまれた熱(感情)をそのまま渡されているように感じられるからではないか、そしてそれはわたしたちの普段しているコミュニケーションに酷似しているからではないか、と思うのです。作詞してる人間と歌う人間がイコールなんだから別に普通だろ…と思われるかもしれないんですけど、それはその通りかもしれないんですけど、昭仁さんの作詞したものなにもかも全部そういうもの、というわけではないんですよ…
昭仁さんの作詞したものをかなり大まかに2つにわけるとフィクション性の強いもの(ここでは物語性の強いもの、と定義させてください)と※そうではないもの※という分類ができると思うのですが、
昭仁さんはフィクション性の強いものの歌詞を描くときに共鳴するセンサーの出力を強くしている。そんな印象を受けます。
(※そうではないもの……フィクション(性がより強いもの)とそれ以外のものとの境界線をどこで引くかという判断が極めて難しいところでもあり、(もちろん例外もたくさんありますし)明確に分けることはできないのですが「恋愛の要素(もしくは描かれている割合)が著しく低いもの(あるいは見受けられないもの)」とさせてください。)
ファンクラブ内で行われたカップリング曲(確かライブで聴いてみたいカップリングとかそういうテーマだった…気がします…違ってたらすみません…)の投票で一位に選ばれた『夕陽と星空と僕』は昭仁さんの作詞ですが、
『夕陽と星空と僕』わたしもめちゃくちゃ好きな曲なのですが、特に好きなところがここで、そしてここがこの曲の一番凄いところだと思っています。なにが凄いって前後文脈を何も説明せずにここだけ抜粋して読んでも「あぁ…わかる…」ってなりませんか?しかも歌詞に使われているのは抽象的な言葉なのに私たちが想起するのは具体的なことじゃないですか?
たとえば手の大きさの違いに笑いあったりたい焼きをどこから食べるかを延々と話していたことだったり、そんなことからはじまって、その違いを笑いあったり楽しんだり出来たはずなのに一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、いつからかそのささやかな違いを許せなくなったり、苛立ったりして……タオルは左から使ってっていつも言うてるやろ(何の話?)みたいな…そんなことの積み重ねで心が離れていき…みたいな感情と時間の経過までわかるような気になります。
『夕陽と星空と僕』ではこんなフレーズも出てきます。
涙を流さなかったのではなく「流せなかった」と描かれることで、涙を堪えてこちら(「君」)を見つめている「僕」の姿が目に浮かんできますよね。
こちらは冒頭からの引用なのですが、聞いてるうちに自然と「君」は廊下で呼び止められるけど「僕」はなにも言わずに(でも何か言いたそうに)見つめてくるのみで、微妙な沈黙のあとに「あの課題もうやった?」みたいな当たり障りない話題を「僕」に振られ、会話を続けるもちょっとがっかりしてしまっている「君」みたいな構図が浮かびませんか?そしていつの間にか「君」としてそこに立っているのは自分の姿になっているんですよね…
(フィクションの世界において)昭仁さんの言葉で「君」と呼ばれるとき、視線は必ずこちらにむけられている。
では、「そうでないもの」ではどうか?
「そうでないもの」の場合は「引きずり込む」ではなく「流れ込んでくる」という感覚があります。
内省的なもの、恋愛要素が極めて薄いもの、もしくは恋愛要素を除くもの、というテーマで作詞をする場合、昭仁さんはそのセンサーの回線を切っている(感度を低く設定している)のではないでしょうか。
共鳴するセンサーを自在に操れるということは、その回線をオフにすることもできる、とわたしは考えています。
※ただ、昭仁さんの歌詞の特徴のひとつでもある「明るく、前向きで、力強い」とされているものを書かれるときはそのセンサーの回線が入ったままになっていて、それが昭仁さん自身がもともと持ち合わせている「陽」の気質との相乗効果によりエンパワメントする力みたいなものがとてつもなく大きいものになる(平たい言い方をすればめちゃくちゃポジティブなものになる)のではないでしょうか。だから聴いている人のメンタルの状態によっては(引きずり込まれてしまうので距離感がめちゃくちゃ近くなり)「う、ま、まぶしすぎる…いまのわたしには直視できない…」みたいなことになる場合もあるのでは、と思います。(ちなみにその系統でいうとわたしは『Rainbow』がめちゃくちゃ好きです。「なぜ僕たちは大人になって失くしたものに気づくのだろう 夢や希望を口に出すこと後ろめたい気持ちになってる」って書き切ることができるの、しかも全然嫌味じゃないのめちゃくちゃすごくないですか⁉️)
センサーを切る、それは「感情を増幅させずに(聴き手への揺さぶりを最小限に抑え)シンプルな自分(昭仁さん自身)の心情の流れのみを記す」こと、つまり「僕」だけの「閉じた世界」のことを描くということではないでしょうか?
昭仁さんの歌詞は前述した「明るく、前向きで、力強い」とされるものと同じくらい鬱っぽいもの(?)「内省的でテンションがかなり低いもの」というのも特徴のひとつであると思いますし、そういう曲がめちゃくちゃ好きっていう人もめちゃくちゃいます。めちゃくちゃわかる。私自身そういった系統の曲も大好きです。なんというかとてもクセになるんですよね…(逆にお前はきらいなものがあるのか?)(あっ…ないですね……)聞いてるうちに、あれ?わたしのことかな?みたいな気分になり、今度は初めからしっかり聴こう、とリプレイする。聴き終わったらもう一度…と繰り返し繰り返し聴き込むうち、耳を澄まさずにはいられなくなる。一言一言を聴き逃してはいけない、と思うようになる。
どうしてそんなことが起こるのか?
「閉じた世界」の話が描かれるとき、「私たち(聴き手)」と「僕(昭仁さん)」の間には(昭仁さんのセンサーが切られていることにより)ワンクッション置かれている。良い意味で隔たりがある。
これは昭仁さん(作詞)→昭仁さん(歌)の間で昭仁さん自身がおそらく無意識に感情の濾過のようなものをされているのだと思います。そしてそれがより強い抽象性を生んでいる。
抽象化されることでわたしたちは「閉じた世界」に引きずりこまれずに、そこに描かれている「僕」の感情を冷静に昇華することができる。
ただし抽象化されているということは同時に普遍性が強調され、それだけ私たち自身が自分のなかにある感情を省みることになる、ということでもある。
いつのまにか(聴いているうちに、もしくは聴き終わったあとに)自分の感情の一部であるような気がしてくる。境目がなくなって、いつのまにか感情が混ざりあってしまっている。「僕」のものだった感情がこちら(聴き手)に流れこんできてしまっている。これは私のなかで、さっきの引きずりこまれる、という感覚とは相対する位置にあるのですが、
引きずりこまれるときは、昭仁さんの作った世界に(わたしが)連れ去られてしまっている。
流れこんでくるときは、昭仁さんがこっちに(私の方へ)やってきている。
そんな感覚です。
どういうこと?って思ったら一度聴いてみてください。聴いてくれたら分かるので…本当に…百聞は一見にしかずなので…
『n.t.』は歌詞の中に「君」や「あなた」という呼びかけは一切なく、自問自答(しかも何も解決していない)のみが続きます。でもわたしはいつも、この「僕」が「僕」にむけた問いかけや言葉であるのに、曲に耳を傾けているうちにいつのまにか聴き手である自分が自分に問いかけているような気分になり、「どうした?小さくなってしまった?もう何も入りきらないの?」のところで、その言葉が真っ直ぐわたしに向けられていると感じてはっとなるのです。
つぎに引用したのは『素晴らしき人生かな?』という曲なのですが、意外と平易な言葉を使っているわりに問いかけはなかなか哲学的で、でも「なんか分からなくもないな」という気持ちになるし、ちょっとクスッともなる。そしてそのあとにちょっと自分の部屋のこと(と自分の精神状態との関係?関連?について)考えたりもします。
この曲には「彼女」も登場人物として出てくるのですがこの曲では(のちのち会話(だと思われるもの)の中で「君」と呼ばれるものの)最初「彼女」のことを「君」ではなく「あの娘(コ)」と呼んでいます。つまり私たち(聴き手)は「彼女」じゃないんですよ。あくまで彼女は彼女という存在なんです。ちゃんと聴いている側との間にクッションがある。この曲においてメインとされているのはフィクション性(僕と君における感情の揺らぎや関係性の変化にまつわるストーリー)ではなく「僕」の「閉じた世界」の話、つまり「僕個人の心情(考えていることや感じていること)」なんですよ。この距離感の違いというか、描写の微妙な違い、分かっていただけますか?!😭
そしてリリースされているもののなかで、一番新しい昭仁さんの作詞したものが、去年発売のソロアルバムのラストに収録されている『歌を抱えて』という曲なのですが、引きずりこまれるとも流れこんでくるのとも違う、新しさがあるな、と思いました。
昭仁さんがアルバムのページをめくりながら、「この時はこんなことがあって…」というようにぽつぽつと、思い出話をしてくれている気がしました。昭仁さんの作詞したものを聴いている中で、なんだかこれまでになかった感覚だな、と思いました。
それは「引きずりこまれる」でも「流れこんでくる」わけでもなくて昭仁さんが差し出してくれたもの(この場合は昭仁さんとお父さんとの思い出)に「触れている」(昭仁さんが触れさせてくれている)感覚に近いかな、と思ったんですよね。
いま、わたしが触れているものは、わたしのものではない(それははっきりとわかる)(だってわたしのものとは似ているかも知れないけれどかたちが少し違うから)けれど、でも、わかる、知っている。
そう思いながら、いま、手の中にあるもの(昭仁さんが渡してくれたもの)の感触をゆっくり確かめていく。
これは「共有」と呼べるものではないでしょうか。
そしてその要素は昭仁さんの作詞したものにおいて『歌を抱えて』という曲ではじめて芽生えた『新しさ』だと言えるのではないでしょうか。(『カゲボウシ』や『むかいあわせ』でその礎は出来ていた気もするのですがこちらの曲たちはやはり「僕」と「君」の話で聴き手を引きずりこむ力がとてもある気がします。そして『歌を抱えて』にとても共鳴できる、聞くと泣いてしまう、というのもとてもわかるし、わたしもじんわりしてしまうのですが、1歩引いて歌詞の言葉をみてみると、「僕」の心情はぽつりぽつりと綴られてはいるもののとても叙事的なんですよね。同じ主題である『ロスト』とはとても対照的だと思います。)
これってめちゃくちゃ素敵なことじゃないですか⁉️
先日の『EIGHT-JAM』で(乗り越えたということは大前提として)晴一さんの歌詞に勝てなくてモヤモヤしてた…みたいなことを昭仁さん本人は言われていましたが、昭仁さんの歌詞が晴一さんの歌詞に劣っているなんてわたしは一切考えたことがなくて、それどころかポルノグラフィティの曲の多彩性の一部を担っている重要な要素のひとつだと思っているので、そのことを一人でも多くの人に伝えたい…ちょっとでも興味がわいたひとがいたら、1回でいいから聴いてみてほしい…と思いこの文章をしたためました。
昭仁さんお誕生日おめでとうございます。
昭仁さんの歌詞には昭仁さんの歌詞にしかない魅力がたくさんあります。
わたしはその魅力にずっと翻弄され続けています。
10/30に配信リリースされる『ヴィヴァーチェ』という新曲の作曲は晴一さん、作詞は昭仁さんです。横浜ロマンスポルノで初披露してくれたとき、演奏もききたくて、でも画面に出てる歌詞もちゃんと追いたくて…となり目がめちゃくちゃ忙しかったです、幸せ…
最後にちょっと脱線(?)してしまうのですが、書いてるうちにどうしても記しておきたくなったので書かせてください…これはポルノグラフィティに対してなのですが、ライブがあるたびに新曲を発表してくれるところ、何かのタイアップとかそうじゃないとか関係なく、まだまだわたしたちに新しいなにかを見せようとしてくれるその姿勢や気持ちが本当に素敵だなと思うし大好きだし、わたしもなにか、そういう気持ちに応えたい、といつも思っている…なかなか出来ている気はしないけれど…
なのでせめて(?)リリースされたら浴びるように聴きたいなと思っています。配信日がいまからとても楽しみです。