「名付けられていない」こと
セクシュアルマイノリティの方々のライフヒストリーで、こういう話を目にすることがある。
[自分が周りと違っていて、そのことに疑問と不安を抱き、自分が普通じゃないことを否定、否認してしまう気持ちになっていたが、ネットや本などで自分のジェンダーやセクシュアリティに合致する「名前」を見つけたことで、自分はおかしくなかった、自分はこの生き方を選べるんだ、と安心したり、嬉しくなったりして、自分を肯定できるようになった。]
「名付け」の力ってやっぱり大きい。自分が名付けられているということは、世界が自分を見落としていないこと、自分のことが考えられていることを意味する。「自分だけではない」という気持ちは「誰かと繋がることができる」という可能性を開かせる。
私が「シスヘテ男性」という言葉を見つけたときにも、似たような安心感が、少しはあった。「シスヘテ男性」という言葉は、ほとんど否定的な文脈で登場する。それでも、自分は嬉しかった。「シスヘテ男性」という属性でいられる限り、このジェンダー界隈から見落とされることはないだろうと思えた。
ただ自分はどこかに「名付けられていない」感覚を残している。
私が「シスヘテマジョリティ男性」という時には、「シスヘテ男性」を語句通りに受け取ったとき、それでもマイノリティである人の存在を意識している。アセクシュアルとか、ポリアモリーとか。そして、そういう人たちをいくら見つけても、やっぱり自分は雑多に「シスヘテ男性」に放り込まれていた。私は恋愛感情も性的感情も持つし、現状モノガミーに則っているし。
だが、私は「普通の男性」とも思えなかった。昨日の記事に書いたが、私は人間関係を築くことに不得手で、恋愛というものにはどうにも関与できない。詳しくは別の記事で書くかもしれないが、とにかく自分はそういうことに悩んでいたし、「自分は何らかのセクシュアルマイノリティ性を有しているのだろうか」と真剣に悩んだこともあった。
多分この事は、ジェンダーというよりむしろ心理学とか精神医学の分野なのだろうし、「シスヘテ男性」であろうと、様々な「セクシュアルマイノリティ」であろうと、そこに名付けられている人にはバリエーションがあって、それは「一人一性」とでも言うべきものであると考えれば、なにもおかしなことではなかった。
でも、自分がこのジェンダーという世界で、「名付けられていない」ことを感じずにはいられなかった。自分のことは、この世界では語られない、繋がれないと察した。悲しかった。寂しかった。
自分の頭でも、自分に良い「名付け」がまだできていない。「シスヘテマジョリティ男性」よりも、もっと自分のジェンダーとセクシュアリティの特徴を語れる良い言葉が見つからない。それがもし、そのことがジェンダー学の守備範囲でないからだとしたら、そのことを早く知りたい。それが分かっても、私はこの世界から去ることはないだろう。今、宙ぶらりんになっているこの感覚を、早く捨て去りたいだけだ。
私の暫定的な性は「シスヘテマジョリティ男性」だが、いつかそれは変わるかもしれない。私自身が変わるかもしれないし、言葉だけが変わるかもしれない。むしろ、変わっていてほしい。未来の自分に期待を、ちょっぴりだかけておこう。