【プリズンライターズ】転生したら『受刑者』だった件 Vol.3
転生したら『受刑者』だった件 Vol.5 - 新年の戯れ言 -
ここんにちは。あるいはあけおめ!みなさん。辰年だ。英語で言うと「The Year of the Dragon」。
カッコイイ。 「干支に何で猫が入ってないんだ」と新年を迎える度に憤慨している日本の1億3000万人の猫好きのみなさん、ベトナムは去年〝猫年〟だったらしい。干支の動物は国によって結構違うのだとか。
ちなみに、イランだったかどこかは、今年は〝かたつむり年〟らしい…。かみまみた!
さて、知らぬ間に猫の出番が終わっていた新年、みなさんはどんな年末年始を過ごしただろうか?
ケームショで年を越すというのは、相変わらず何のおめでたさも感じないなぁと思う。一応、ケームショ側も我々が多少でも年末年始気分を味わえるようにな計らいはしてくれているが、特段何かできるわけでもなく、三畳一間ベンキ付の部屋に一人で引きこもっているだけの日々では「今年もこんなところで1年を過ごしてしまったんだな…」といったネガティブな気持になってしまう。
昔、「魔法陣グルグル」というアニメのエンディングに使われていた曲の歌詞に「誕生日を迎える度に何を祝うのかずっと謎だった」というフレーズがあった。その曲自体はすごく前向きな曲で、当時は大好きでよく聴いていたのだが、ケームショで迎えるおめでたい日々たちが〝おめでたかった日々〟に変わっていくにつれて、20年以上も昔のアニソンのワンフレーズを思いだして一人考えたりしていた。
もちろん、無事にまた1年を迎えられたことに対する喜びや感謝を祝うんだ、というような優等生的な答えは持っているが、そんな思いが生まれるかどうかはまた別の話で。まぁ、そんな思いは外にいた頃もそもそもなかった気がするのだが、それでも今よりはおめでたさを込めてあけおめは言えていた気がする。
せっかくの新年の投稿なのでもう少し明るいことを書こうと思っていたのだが、思っていたよりアンニュイな気分になってしまったのは、新年早々の大きな地震のせいでもあると思う。
この投稿を書いている今(1日の19時時点)も、どのチャンネルでも正月特番の代わりに地震の報道が流れている。
ここ大分ケームショ国は幸い何の被害もなかったが、我々などよりもおめでたくない正月になってしまった方がいることに、何とも言えないやるせなさを感じる。相変わらず自然は、人間の都合などまったく考えてくれないのだなと思う。
ただ、あまり誰も言わないのだけど、内心思っている人は少なくないと思う好感度が下がりそうなことをあえて言ってみるのだが、何か大きなことがある度に全部のチャンネルで同じことを放送することなくないか?と。どうだろうか?
確かに、みんなが注目するような出来事ではあるし、特に災害に関しては、注目される機会が多い方が支援が集まりやすいとかのちゃんとした理由があるのかもしれない。被災した方々を心配して自分事のように悲しみ苦しんでいる人も多いと思う。
もちろん、自分も含め、災害のことを知った多くの人は大なり小なり心は痛めていることと思う。
だが、誰もが関心度高くずっと注視していたいかと言えば、そうではないと思う。
ある程度の情報が得られればもう十分で、あとは時々どうなっているかチェックしたいと思うぐらいではないだろうか。
同じ出来事でも各局全然違うことを放送するならまだしも、どうやったって同じような内容になるのならば、そうした放送はNHKに任せて、民法は普通の放送をしてくれた方が喜ぶ人も多いのではないだろうか?
うん、確実に好感度は下がった気がするが気にしない。だって、正月番組見たかったのだもの。
まぁ毒にも薬にもならない戯れ言となってしまったが、みなさん、今年もよろしくお願いします!
令和6年1月5日
転生したら『受刑者』だった件 Vol.6 - ケームショの変化 -
こんにちは。もしくは鬼は外(?)、みなさん。
ケームショ国の朝は、起床を告げる放送から始まる。どのような放送が流されるかはお国によって全く異なり、ここ大分国では「ピヨピヨピヨ、ピーココピーココ」と鳥のさえずりが流れたのち、大変優雅な音楽で異世界の朝を彩る。
まだ未決囚の時にいた宮城国では、木琴の16ビートのような連打が打ち鳴らされ、これから運動会でも始まるかの勢いで叩き起こされた。起床から朝の点呼までの時間も短かったため、放送と同時に飛び起き、競走でもするようにバタバタと着がえたり布団をたたんだりしていた。起動能力がウィンドウズ95並みのスペックな僕にとって、毎朝命を削る思いで自分を動かしていたのを覚えている。
その点、その頃に比べたら今はだいぶストレスの少ない朝と言えるが、一つだけ難点があるとすれば、ケームショ周辺に”本物”が生息していることだ。なんという鳥なのかは知らないが、本当に放送と同じようにピーココピーココ鳴くため、その鳴き声に「もう朝か…」と起きると、外はまだ真っ暗でニワトリも起きてないような時間に起こされることがままある。
その度に「なんだよ、偽物かよ…」と思うのだが、本物なのに我々からは偽物扱いされる彼らもいい迷惑なのかもしれない。
さて、ケームショの世界のルールというのは、王様たちの鶴の一声によって常にコロコロ変わる。
昨日まで白だったものが、突然今日から黒に変わるなんてことは日常茶飯事だ。
外の世界で例えると、ある日突然「車で人を傷つけた人がいるので、今後車の使用は一切禁止します。違反者や反発者は問答無用で逮捕です」となるのと同じことが、この世界ではあたり前に起きる。
賢明な方なら、悪いのは車ではなく車を使って人を傷つけるごく限られた人なのだから、そのことでその他の大勢の人たちの自由や権利を奪うことはおかしいとか、そんな独裁的なやり方はあってはならないとか当然思うと思う。
しかし、この国の王様にはとても広い裁量権が与えられており、しかも我々下級国民が民主主義的に選べるわけでもない。
それゆえ、我々の利害とは一致しない独裁政治のような運営がなされる。
ケームショ側の目的は、再転生のその時まで我々を収容・管理することにある。
収容者の人権や改善更生などといったことは二の次、三の次であり、円滑な管理運営を妨げることや管理責任を問われるようなリスクをとても嫌う。そのため、本来なら車の利用に免許制度を設けたように、国の法律とは国民の権利と安全リスクなどを考慮した折衷案でなくてはならないのだが、民意の反映されにくいこの世界では管理運営第一の思考停止法案がまかり通ってしまうのだ。
なぜなら、それが一番楽だから。
もちろん、王様によっては我々の人権や改善更生に重きを置いて考えてくれる人もいる。
しかし、そうした人物はマイノリティーな存在であり、運良くそうした人に政権が交代し国営の改善の努力をしてくれたとしても、王様の任期は1~2年ほどしかないため、すぐにまた巨大保守派政党がやってきて前政権の功績を潰していく。
何年か前、独裁者の権化のような人物が九州管区に現れ、ゆく先々で、休憩中の席の移動や他テーブルの人との会話を禁止したり運動時間に運動しながらの会話を禁止したりなどといった、様々な悪政で猛威をふるっていった人物もいた。
もちろん、コロナ前のことだ。いまだにその時の傷跡が各所に深く残っている。
一方、ここからが本題とも言えるのだが、近年、その管理一極主義の運営にも少しずつ変化が見えてきている。
目立ったところで言えば、居室棟にエアコンが設置されたり、入浴の回数が週2回から3回になったり、最近では軍隊式の行進が廃止されたり、職員が収容者を「さん付け」で呼ぶようになったりなど、人権的な配慮が感じられるようになってきた。
きっかけとしては、拘禁刑の導入であったり、名古屋刑での集団暴行事件だったり、人権団体の方々の日頃の活動のおかげや情報の拡散性の向上など色々とあると思うが、そうやって今まで影に隠れて見えなかった世界にも光が届くようになり、ここは本当は異世界などではなく自分の世界と地続きの同じ世界なのだと誰もが思えるようになれば、世の中今より少しは良くなるのかもしれないな、とか思ったりする。続く?
令和6年2月4日
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