【プリズンライターズ】獄中小説・獄楽/休日24時 Vol.8
獄中小説・獄楽/春 Vol.7
共同室には、席順がある。道路から見て、右の手前が1番席。
そこには今、中田さんが、梅干しを食べているかのように口を窄(すぼ)めて眠りこけている。
そして、左の手前、テレビが置いてある方が2番席。今、ユウジがいる所だ。
3番席が、中田さんの隣でマサ。そのマサの寝顔は、布団に隠れていて様子を窺うことはできない。
が、想像はつく。こいつは、眉毛がないので、表情を読み取るのが難しい。
だが、寝ているときは、これでもかというほど眉間をギューっと絞り込んでいるため、恐らく、つまようじが挟めるぐらいの縦皺をそこに刻んでいるはずだ。で、ユウジの隣、4番席に、俺だ。
5番席は、マサの隣で居室の奥、窓側に位置するのだが、昨年末の転室当初はここに〈東大〉がいた。
だが、調査隔離となった〈東大〉が飛んでからは、ずっと空席のままだった。
「誰だっけって、名前ですか?」
「いや、名前もだけど・・・」
俺が、言い淀んでいると、 「昨日来た新人じゃないっすか。まさか、憶えてないとか?」
ああ、確かにいたな。朝一番に工場に来て、昼休憩にはマサに連れられて俺とユウジに挨拶をしてたっけ。
で、居室に帰ってからは、そのマサが〈教育係〉となって巻く必要のないところまで巻き舌にし、あれこれ教え込んでいた。
「憶えてるよ。あれだろ、広島出身で、えぇっと・・・」
「ネモトマサミ、24歳。ジンさんふうに自己紹介するなら、巨根の根に本番の本で根本。で、真珠の真に実直の実で真実。そんな感じですかね」
「おい、ちょ、ちょっと待てよ。巨根に真珠で本番行為、それでお前、実直はねぇだろが」
何か知らねぇけど、負けた気がして、ついムキになってしまった。
そんなふうに言われると、根本がギンギンに精力が漲(みなぎ)っているように聴こえる。
しかし、実際には、その逆だったと思う。坊主頭とはいえ、今どきの若者っぽさが窺えたし、躰もさほど大きくなく、線も細かった。全体的な印象としては中性的、そんな感じだった気がする。
「ところでジンさん」
「あん?」
「何か、昨日届いた手紙、すげぇ難しそうな顔して読んでましたけど・・・」
「あぁ、ちょっとな」
同じ部屋で生活していると、ちょっとした心境の変化をすぐ読み取れてしまう。
いつもなら、その場で「どうかしましたか?」と声を掛けてくるユウジやマサだが、昨日は、それがなかった。
「お前らが声を掛けづらいほど、俺は、ピリピリしてたか?」
「いえ、ピリピリ、とは違います。どう言ったらいいんだろう。やっぱ、難しそうな顔、それが、ぴったり当て嵌まる感じっすね」
「そっか。ま、それはまたあとで話すわ」
ユウジとマサに相談して、意見を訊こうかと思った。でも、それで自分の信念が揺らいでしまうことを、俺は、恐れた。
「まいったなぁ、すっかり眼が醒めちゃいましたよ。ジンさん、何か本を貸して下さいよ」
「おお、適当なのを棚から取れ。ついでに、俺のも、何か、車の雑誌でいいから取ってくれ」
早朝読書。外が明かるくなってから、布団の中で本を読むことが許されている。
起床まで、およそ1時間。俺とユウジは、それで時間を潰すことにした。マサのことなど、すっかり忘れてしまっていた。
起床のチャイムと同時に、戦争が始まる。
「おい新入り。そっちの窓を全開にしろ!!」
ユウジの声は、怒号に近い。指示をしながら、自分の方の窓を開ける。と、今度は、中田さんの方のそれに飛びつく。
隙のない俊敏な動きだ。ヒットマンに使ったら、きっといい仕事をするに違いない。
マサはマサで、〈布団の早畳み〉ギネス新記録に挑戦している。だから俺は、言ってやった。
「ただ今の記録、12秒33です」
―ダメだ、聴いちゃいねぇ。
マサの顔は、マジだ。このクソ忙しいときに、イジった俺が間違っていた。
そのマサが、最後の仕上げと言わんばかりに、枕カバーをピシッと引っ張る。
「よしっ!」そう言って、ポンと枕を叩くと、隣、中田さんの布団に取り掛かった。
中田さんは、自分の役割をちゃんと心得ている。まず、チャイムが鳴ると、「やれ、よっこらしょ」と、気の抜けた気合を入れて布団から抜け出す。そして、壁を伝って立ち上がると、丁度そこに位置するタオル掛けからスルリとタオルを引き抜き、パジャマの袖を捲り上げ、洗面台へと向かっていくのだ。これ、ものすごくのんびりしていそうに見えて、実は、早い。マサが、自分の布団を畳み終えると同時に、中田さんは、洗面台に向かっている。だから、10秒前後だと思う。そして、すぐに顔を洗い、入歯を嵌め、鏡に向かって、
「カツン、カツン」
まるで、火打ち石で切り火を打つかのように入歯を2回打ち鳴らし、
「よしっ!!」
そう言って、右手でポンと腹を叩いた。
今、中田さんのボルテージは、最高潮に達しているはずだ。
俺は、自分のペースで布団を畳むと、中田さんと入れ替わるように、洗面台に立った。
「ジンさん、うしろ、開けますよ」
ユウジが、俺の背に立ち、トイレのドアを引き開けた。ドアノブが尻に当たるが、まぁ、いいか。
「ほら新入り、俺の掃除の仕方をちゃんと見とけよ」
公衆便所のような悪臭。居室の窓を全開にするのは、布団を畳んで埃が舞うから、という理由からと言えるが、実は、この悪臭のせいで換気していると言っても過言ではない。
根本が、ユウジの背中ごしに中を覗き込む。
「とにかくまずは水を流せ。それからこのシャンプーを使ってブラシで擦る。こうやってな、万遍なくだぞ」
ユウジが、自分のロッカーから持ってきたそれを、便器の中に少量滴らし、自らやって見せた。
「で、また水を流して、次は雑巾を濡らすんだ。この今流してる水でな。軽目に絞ったら、シャンプーを少しつけてと・・・あ、これ、ほんの少しだぞ。じゃないと泡だらけになって大変なことになっからよ。これをな、こうやって、手の届く上の方から壁を全部拭いていくんだ。どうだ、いい匂いだろ。壁が終ったら、便器をやって、最後に足元な。で、この雑巾をまだ便器の中で、こうして水を流しながらキレイに洗って、この便器の蓋を下ろしたらパイプがあっからよ、これに掛けて、終りだ」
毎朝、こうして掃除をしても臭うのには理由(わけ)がある。
朝だからこそ、臭うのだ。なぜなら、夜9時の就寝時間を過ぎたら、起床まで、トイレの水を流さないからだ。
いや、流せない、と言うべきか。この部屋だけじゃない。このムショで生活するすべての居室がそうだ。もっと言うと、全国的に、そうだと思う。
節水のためじゃない。
夜9時に就寝となれば、誰だって夜中に1回はトイレに立つ。中には、10回以上なんてやつもいる。
5人部屋、6人部屋で、一晩にどれだけの回数便所の水が流れるか、ということだ。
同部屋の者はもちろんだが、周囲の居室にまでその音は響く。これは、共同室に限らず、単独室でも同じことが言える。
うっかり水を流そうものなら、
「うるせーなバカ野郎っ!!」
と、あちこちから怒号が飛び交う。だから、腹痛に襲われて大便をするならともかく、小便で水を流さないのが〈懲役同士のルール〉になっている。
その大便にしたって、次の日、工場に出役してから、
「昨日はすいませんでした」
と、謝って回らなければいけない。そのため、毎月1回しか出ない牛乳を飲むのを恐れ、人にあげる。
なんてやつまでいるぐらいなのだ。
小便をして水を流さずに出るぐらいだから、当然洗面台の水を流して手を洗うことなんてできない。じゃあ、どうするか。
あらかじめ、洗面器に汲みおいた水を使用するのだ。
俺が顔を洗い終えるとマサ。そのマサが終わると丁度便所掃除を済ませたユウジがそこに立つ。
これが、俺たちのルーティーンになっていた。さて、根本が便所掃除をやるとなると、明日からユウジはどうするつもりなんだろう。
ま、俺と中田さんは今まで通りやるだけだが、多分マサも、そうするだろう。
ユウジのことだから、箒(ほうき)で簡単に掃き掃除でもすると思うが、俺はとくに口を出さない。
今の俺たちは、暗黙の了解で自分の役割を心得ている。
よっぽど気心が知れた仲じゃないとこうはいかない。大概(たいがい)転室して新メンバーでスタートするとき、〈決め事〉を話し合ってそれぞれの役割分担を決めているのだ。
「明日からはお前がやるんだからな。じゃあ、早く顔を洗っちゃえ」と、ユウジが偉(えら)そうに先輩風を吹かせた。
2人並んで立てる洗面台にもかかわらず、ユウジが洗い終えるまで、根本はそのうしろに立って控えていた。
返事をする余裕すらないのだろう。緊張と怯えが、同時に読み取れる。
とにかく言われたことに従う。俺も、新入のときはそうだった。ある意味、微笑ましい光景だ。
「おい新入りっ、こっちにきて皆の布団を見てみろ!!」
中田さんが、吠えた。
5番席に戻ってタオルを定位置に掛けた根本が、固唾(かたず)を呑んで、首を廻らせた。
「敷布団、掛布団、毛布。ちゃんと下から順に縦と横がピシッっと揃ってるだろうが。角もほれ、こうしてな。それに、枕の位置はここじゃ。その横にパジャマ。分かったかっ!!」
中田さんが、覚醒した。
俺とマサの眼が合った。分かる人にしか分からないシャブ中同士のアイコンタクト。
―おい、布団もパジャマも全部お前は畳んでもらったくせに、よく言うな中田さんも。
―まったくですね。でも、ちょっと凄みがあってシブイっす。
―だな。ナイフみたいに鋭い眼つきだし、白い濁りも一瞬消えてたぞ。
「・・・そうだよなぁジンちゃん」
―んん?何の話だ??
俺は、小首を傾げた。
「おいおい、しっかりしてくれよジンちゃん」
中田さんが、不満げに吐息をついた。
「この根本がな、これからきっちり覚えてやってくれねぇとな、こいつが次に一緒になった部屋の連中から、俺たちが笑われるんだぞって話をしてたんだ」 ユウジが、それに被せる。
「その通り。お前がな、次の部屋でいい加減なことをするとな、新入のときは誰の部屋で教わったんだ、ってことになるんだよ」
そして、マサにバトンが渡る。
「イコール、俺たちが恥をかくってことだ」
マサが、俺に片目を瞑(つぶ)る。
―仕方ねぇなぁ。最後は俺が締めっか。
「ここで厳しく教え込まれたらよぉ、後々、お前自身が楽になっからよ。この先お前と同じ部屋になったやつにはな、新入のときは誰と同じ部屋だったって訊かれたときに。中尾さん、沖田さん、斉藤さんですって言やあ、それならしっかり教え込まれてるはずだなって、安心されっからよ。ま、頑張れ」
ユウジとマサが、頷いている。こんなもんかな。
「よおよお、このワシの名前が、抜けてるじゃねぇか。え、ジンちゃんよぉ」
皆で、爆笑した。ようやく根本に、笑みが零(こぼ)れた。
「点検よーーいっ!!」
丁度のタイミングで、点検の号令が掛かった。
点検が終了すると、すぐに朝飯だ。
白米と麦が7対3で炊き上げられた通称〈バクシャリ〉を主食に、のりたまのふりかけ、大さじ1杯程度のツナ缶、そして、カボチャのみそ汁が今日の副食だった。
飯を食った後、箸と湯呑み、それから布巾の洗い方をマサが根本に教えていた。
「おいマサ」
「はい、何すかジンさん?」
洗面台で洗い物をしているため、185センチ前後の長身のマサには、腰が、辛そうに見る。
「お前、シャブ持ってるだろ?」
「はい、ロッカーの引き出しん中にありますよ」
根本が、怪訝そうな表情を浮かべた。俺の動きを、眼で追っている。
―ふふ、引っ掛かったな。
「昨日ぜんぜん眠れなかったからな、ちょっと、シャキッとしたくてよぉ・・・勝手に開けて、ワンパケもらうぞ」
「どうそ、どうぞ」
「お、マサ、俺もいただくぞ」
ユウジも乗っかる。
俺は、マサのロッカーの引き出しを開け、中を覗いた。
「シップの袋とかがあるでしょ。その1番下です」
「おいおい、こんなヤベーもんそんなとこに入れてんのか?」
マサが、顔をこっちに向けた。
俺は、アイコンタクトを送った。すぐに通じた。
実はこれ、ただのアスピリンだ。病院でもらう薬包、セロハンに1包ずつ0.5グラムの顆粒が入っている。
30年前、俺が娑婆にいた頃は、小分けにされた1グラムのシャブ〈ワンパケ〉は1万円で売人から買えた。
もう、興味はない。が、それでも相場ぐらいは耳にする。今は、1グラムだと4、5万だとか・・・。鼻で笑うしかない。
「ジンさん、はい、水」
マサが、洗った湯呑みに水を入れてよこした。
「俺、〈シキ〉張っときます」
この薬は、マサに投与されたものだ。それを、他人にあげたり、もらったりするのは、反則行為だ。
職員に見つかれば〈物品不正授受〉で10日間は〈座る〉ことになる。
だから、巡回職員が回ってこないかどうか、通路側の窓に張りついてそれを確認するとユウジは言っているのだ。
それが〈シキ張り〉、〈シキ〉という隠語。もし職員の姿が見えたら、ユウジは「ズ・ズッ」と合図をよこす。
俺は、封を切って〈シャブ〉を飲み干した。
今度は俺が〈シキ〉を張る。
「よし、いいぞ」
ユウジが、それを飲み干す。
「カアーッ、効くなぁ」
―バカ野郎、本当のシャブだって水で飲んだだけじゃそんなにすぐには効かねぇじゃねぇかよ。
ユウジはまだまだだ。
「そ、それ、マジなんですか?」
根本が、眼を剥いた。
「何だお前、やるのか?」
俺は、左の腕、肘の裏に注射(ポンプ)を打つ真似をした。
「いえ、自分は、ポンプは使わんのです。炙(あぶ)りですけぇ」
「かなりのポン中か?」
ポン中とは〈ポンプ〉を使うところからシャブ中のことをそう呼ぶが、ポンプを使わずにアルミホイルの上で炙って吸引するだけでも立派なシャブ中になる。だから、その炙りでも〈ポン中〉と呼ぶのだ。
「自分ではそうは思わんのですが、多分、他人から見たらそれに近かったとは思います」
「ふーん。じゃあ、あとでやるよ、アスピリンだけどな」
根本が、肩を落とした。
「お前なぁ、ここはムショだかんな。あるわけねぇだろ」
ユウジが、湯呑みを根本の頭にコツンと当てた。
根本の、中性的な笑顔が弾けた。こいつの使う広島弁と、この笑顔のちぐはぐさ、そのギャップが面白い。
俺は、定位置に小机を置き、腰を下ろした。
引き出しから、封筒を取り出す。
「お、ジンさん、あれですね。起床前に言ってたやつ」
ユウジが、隣から覗き込んできた。
「おう、そだよ」
そう言って、中身を全部机の上に広げた。
「でも、ちょっと待ってくれ」
テレビが点くのは9時。それまで、30分近くあるはずだ。集中して熟考するには、今しかない。
俺は、耳栓をし、沈思黙考した。
一晩考え抜いて、肚は、決めている。
小説を投稿するにあたり、俺は、気負い立っていた。
「あんまりさ、緊張せず、楽しんでやってよ」
報告書の送り主〈ゆうこりん〉は、そう言ってくれた。
俺は、その言葉で、己自身でかけて解けなくなっていた呪縛から解放された。
もう、すでに投稿した原稿は3シリーズ分ある。その中の、〈獄楽〉vol.1と、vol.2が、サイトにアップされたという報告書が届いたのだ。
俺は、SNSに投稿されている140文字以内の小説があるということを、ある雑誌を見て知った。
〈マイクロノベルス〉そんな言葉だった。だが、俺は、それとは違って、その140文字以内を連作するものを真似てみたくなった。
実際に、どのように投稿されているのかをまったく知らない。
俺は、仕方なく、ただただ、140文字以内、ということだけに拘った。
報告書で、俺の小説がどのようにアップされたのかを知った。
「何だ、これ?」
その辺の子供が書くような日記、そうにしか見えなかった。
―さて、これからどうすりゃいいんだ?
難しい顔をしていた、とユウジが言っていたのはこれだ。
俺は、自分の性格を知りつくしている。これ以上追想してしまうと、また、堂々巡りを繰り返す。
耳栓を、外した。
〈ゆうこりん〉からの手紙、それ以外の報告書の類を、ユウジに渡した。
「これ、ジンさんが書いた小説っすよねぇ」
「そうだよ」
「へぇ、ジンさんの言ってた支援団体って、ここのことだったんですね」
〈笑顔にかえるプロジェクト〉
あまり他の人には広めないでほしい、という団体からの意向をうけ、俺は、誰にも話していなかった。
「お、何か面白そうじゃないっすか」
向かいに座るマサが身を乗り出してそう言うと、
「お前はまだ、こいつに教えることが一杯あるだろう」
ユウジが、根本に向けて顎をしゃくった。
「大丈夫っす。俺はほら、新入のとき、ユウジさんから教えてもらったことを全部ノートに書いたでしょ」
「んん?そうなのか??」ユウジが首を傾げた。
「そうですよぉ。だからね、こいつには、それを全部書き写せって言ってありますから、な」
マサが根本に同意を求めた。
「はい。これだけの量だと、下手したら、昼までに終わらんと思いますけぇ、大丈夫です」
「分かんねぇところがあったらな、あとで全部説明してやっから、とにかく書くだけ書いちゃえよ」
今は邪魔をするな、とマサは言いたいのだろう。
―仕方ない、交ぜてやるか。
テレビが点いた。
土曜日だから、TBSにチャンネルを合わせた。
昨夜から降り続いた雨は、すっかり上がり、居室内に陽が射してきた。
―よしっ、あとは、神のみぞ知るってやつだ。
俺は、改めて、肚を括った。
―了―
ペンネーム楠 友仁
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