【プリズンライターズ】獄中小説・獄楽/休日24時 Vol.7
獄中小説・獄楽/そしてまた冬 Vol.6 こちらから
覚醒
布団の中で、眼を、閉じたまま、耳を、澄ました。
鳥の囀(さえず)りは・・・聴こえ、ない。
ほっと、胸を、撫で下ろす。
いや、待てよ。昨夜から降り頻(しき)る雨のせいで、もしかして、鳥は、ただ意気消沈しているだけかもしれない。
そんな己の怯懦(きょうだ)が、顔を、覗かせる。
俺は、いつも、居室棟を巡回する夜間職員から、顔が見えないように外の方を向いて寝る。
だが、今日は違った。
現実から眼を背けるには、模範囚のように、通路の方を向くしかなかった。もし何だったら、掛け布団を肩の位置まで下げ、首元が見えるようにし、何かを巻きつけて自殺など企(くわだ)てていませんよと〈就寝時の心得〉という所内生活を送るうえでのルールブックに謳われているように、巡回職員にアピールしてやろうかと思った。
しかし、そんな強がりを言っていられるのもここまでだった。
左の肩、心臓を下に向けて横臥(おうが)している俺は、不慣れな姿勢のせいだろう。腕が痺れて仕方なかった。
―だめだ、もう限界だ!!
躰を、反転させるしかなかった。
―でも、待てよ。腕を圧迫して堰き止められている血液が、一気に放流されて全身を駆け巡ったら・・・
多分、俺の脳味噌は、今よりももっと覚醒しちまうんじゃねえのか?
シャブの後遺症。妄想の虫が、蠢(うごめ)きだす。
俺は、恐る恐る、寝返りを打った。
妄想は、妄想のまま消滅した。が、心臓の拍動は、早まった。
閉じていた瞼を、祈りとともに、ゆっくり開いた。
鉄格子の合間から覗く空は、とうとう、俺を裏切りやがった。
夜は、すっかり、明けていた。
このムショは、夜9時が消灯・・・いや、正しく言うなら減灯か。
居室内の明かりを完全に消してしまうと、収容者が布団の中にいるのかどうかや、もし自殺を企てていた場合、それを巡回職員が目視できないため、室内は30ワットの蛍光灯が灯される。
娑婆にいた頃から夜型人間の俺は、獄中30年と言えども、その時間に寝つくことができない。
だから、巡回職員にバレないように、文庫の小説を読んでから寝る。もちろん、これは反則行為だ。
夜間の巡回職員は、およそ、15分毎に居室の前を通っていく。
俺は、あらかじめ、枕の右下に4枚の栞を忍ばせている。それを、1枚ずつ、職員が通るたびに左下へと置き換える。
無くなると、今度はそれを逆にやる。そうやって、おおよその時間を計算している。なぜなら、居室内に時計など備わっていないからだ。
いつもなら、栞を1往復、大方2時間も経過すれば瞼が落ちる。しかし、今夜は違った。
さらに栞を4枚、時間にするなら、3時間以上が経過しても、睡魔が訪れることはなかった。
巡回職員の足を運ぶリズム音や、衣擦(きぬず)れの音、それが、丁度変わった頃だった。
それまで巡回していた職員が、仮眠をとるために交替した時間、すなわち、午前0時を回ったあたりから、俺は、少し、焦り始めた。
―やべ、ぜんぜん眠れねぇ。
その原因は、分かっている。
いつものように、小説を読まなかったせいじゃない。
ガラスの窓が、ビリビリと震動するほど爆音を轟かせるマサの鼾(いびき)や、錆びついた鉄の扉を、無理くりこじ開けているようなユウジの歯軋(はぎし)りのせいでもない。ついでに、もうひとつ。居室内は、きちきちに布団が敷き詰められているにもかかわらず、そんなことにはお構いなしに徘徊する中田さんに、足を、3回踏まれたせいでもない。理由は、ただひとつ。昨日、俺の手元に届いた〈報告書〉のせいだった。が、今はそれを考えるのはやめた。とにかく、時間が気になった。
俺が今生活している4棟は、4階建てで、すべての居室が共同室だ。
居室の中は、畳が9枚敷かれている。その奥には、トイレと、2人が並んで使用できる洗面台が設けられている。
このスペースに、6名までが収容できる。
各階に10室。この棟だけで、MAX240名を閉じ込めておくことが可能だ。西側、5棟も同じ造りだ。
東側、3棟と、その向こうの2棟は、4階建てでも、すべての居室が単独室となっている。畳が3枚。
その奥、窓側、畳1枚分にも満たない広さに、公衆便所の方がまだマシだと思えるような洗面台と、何の囲いもなされていない剥き出し状態の洋式便器が、我がもの顔で悪臭を放ちながら鎮座している。これが、各階横並びに35室。
各棟、MAX140名だ。この他に、1棟や病棟もあるが、それらをすべて足し算すると、このムショのキャパは800名近くとなる。
俺は、4棟の4階、ほぼ中央に位置する5室に収容されている。今、その居室の窓から、3棟1階を覗き見たい衝動に駆られている。
が、それをして運悪く巡回職員に見つかると、「おい、何をやってんだ!!」と注意を受ける。そうなると、同室の仲間ばかりか、周囲の居室で寝ている者を起こしかねない。
だから俺は、トイレの中からそれをしようとしている。
しかし、安心はできない。なぜなら、壁と、扉の上半分が透明なアクリル板になっていて、中の様子が丸見えだからだ。
俺は、涸れた井戸の水を無理くりポンプで汲み上げるかのように放尿しながら、小窓を覗き、目的を果たした。
―ハァ、もぉそんな時間かよ。
落胆を象徴するかのように萎びた息子を優しくいたわり、それを、パンツの中に収めた俺は、背中を丸め、そそくさと布団の中に潜り込んだ。
葉桜の季節を迎えたが、早朝は、まだ、肌寒さを覚える。無機質なコンクリートの壁が、余計にそう感じさせるのかもしれない。
―やれやれ、だ。
さっきトイレに行ったときは、すべての居室に明かりが灯っているのを視認した。それが、今は、5室だけになっていた。
午前、5時30分。
確実に、それを過ぎてしまった。
今日は、土曜日。3棟1階に収容されているのは、炊事工場に務める連中だ。居室の明かりが点いたままになっている所は、今日の作業は休みを意味する。
〈炊場〉の連中は、俺たち一般工場に務める〈懲役〉とは異なるシフトで作業を行う。
今日みたいな休日は、朝5時半に〈出役〉する。
〈しゅつえき〉とは、娑婆で言うところの〈出勤〉だ。平日は、これより30分早くなる。これは、一般工場に務める俺たちの起床時間に合わせたものだ。
炊場の連中は、起床時間が俺たちよりも2時間早い。その時間で、俺たちの食う飯を作り上げてくれるのだ。
いつ頃からか忘れたが、〈給食法〉とかいって、〈2時間前調理〉の縛りができてそうなった。
今日の起床時間は7時40分。少なくとも、あと2時間近くは暇を持て余すことになる。
俺は、仰向けの姿勢で、掛け布団を顎の下まで引っ張り上げた。
軽く、眼を閉じた。雨は、まだ降り続いている。
僅(わず)かな時間でも、眠れるものならそうするかどうか逡巡した。
―羊の数でも数えるか。
独りごちて、自嘲気味な笑みを浮かべた。そんな気力は、とうに失せている。
今日は、何でか知らないが、羊が1匹、羊が2匹と、脳裏にその姿を浮かべながら100までいくと、
―あれ、羊って、1匹2匹だったっけ?1頭2頭じゃなかったか??
そんな疑問が、頭の中を渦巻いた。
―ま、どうでもいいか。
それでまた、1から羊の数を数えなおした。
恐らく今夜、1万匹の羊が俺の頭蓋骨の中を歩き回った。俺の脳味噌は、こいつらに踏みまくられたおかげで、グチャグチャに泥濘(ぬかる)んでしまった。
「プゥ〜ウ、プッ、プス」
―この野郎!!
俺の隣、2番席の位置で寝ていたユウジが、ご丁寧にもケツをこっちに向けて屁をこいた。
どうやって寝たら布団からケツだけ出るのか、そう不思議に思っていると、
「ブッ!!」
今度は、明らかに力が込められていた。
俺は、そのケツに蹴りを入れた。
「痛っ!!」
ユウジが、寝惚け眼(まなこ)で振り向いた。
「もぉそんな時間すか!?」
「まだだよバカ」
ユウジの顔が、疑問符になった。
「てめぇがな、俺にケツを向けて屁をこくからだバカ」
一瞬フリーズするも、
「すんません」と、しおらしく頭を垂れた。
ユウジは、まだ寝足りないのか、そのまま布団に潜り込み、背中をこっちに向けた。
ケツの辺りが、ごそごそと動いている。布団から、ケツが出ていないかどうか確認したのだろう。
俺は、ユウジの布団を摘まみ、クイクイ、と引っ張った。
「すんません、ケツ、出てました?」
「いや、出てねぇよバカ」
「んん?」と、ユウジが顔を向けた。
「じゃあ、何すか?」
「何でもねぇよバカ」
不服そうに顔を歪めたユウジは、その下の躰を反転させて、こっちを向いた。
「ジンさん、もしかして、眠れないんすか?」
「だったらどうしたバカ」
胸のうちで悪戯(いたずら)っ子のように笑っていた俺だが、
「ぜってぇ心ん中で笑ってるっしょ」
―読まれた。
それでも一応、
「笑ってねぇよバカ」
「いや、もう、眼が笑ってますって」
―ちっ、やっぱダメか。
「あれでしょ。俺のことをバカバカって言ってイビリ倒す作戦だったんでしょ?」
「違うよバカ」
「もういいっすよ。ところで、今何時ぐらいっすか?」
ここまでくれば、ユウジはもう、眠れないはずだ。
「6時、かな」
「あれ、そこはバカをつけるとこでしょ」
「あのな、お前と遊んでる暇はねぇんだよ」
俺は、ユウジに背を向けた。
「嘘でしょ?」
今度は、ユウジが俺の布団をクイクイする。まるで、あれだ。
ヤル気がなかったのに、旦那に起こされて仕方なく抱かれたら、その旦那は、自分だけそそくさとイッて背中を向けたものだから、「ねぇ、ちょっとぉ、私は、まだなんだけど」と、物足りなくて、布団を引っ張る嫁のようだ。
俺は、吹き出しそうになるのを、必死に堪(こら)えた。
「おい、そろそろ回ってくるぞ」
巡回職員に見られたら、注意だけでは済まない。いや、その場では終わる。
しかし、〈指導簿〉なるものがあり、いつ、何時、誰それが、何をしていて、どんな〈指導〉を職員がしたか。
それに対してその受刑者がどういう姿勢で応じたか、などの詳細を記されてしまうのだ。
これ一発なら、たいしたマイナス点にはならない。イエローカードみたいなものだ。
しかし、半年の間に似たような注意指導が重なれば、〈優遇〉が落とされてしまうのだ。
ユウジが声を潜(ひそ)めて、
「ジンさん、マサも起こしましょうよ」
悪戯好きの虫が騒いだのか、その声が、笑っている。
ユウジが、覚醒した。
―こうなりゃ、中田さんも起こすか。生きてたらの話だが。
「じゃあユウジ、職員が通ったら、俺に言えよ」
初老。その自覚がまったくない俺は、声を弾ませてそう言った。
「ジンさん、オッケーすよ」
ユウジが、俺の背中に、声を掛けた。
「あれ、ジンさん?・・・まさか、寝てないっすよねぇ」
もちろん、寝ていない。ちょっと、思考が停止しただけだ。
「おい」
俺は、ユウジに背中を向けたまま、呼び掛けた。
「何すか?」
「あれ、誰だっけ?」
俺は、5番席に眼を向けながら、そう言った。
ムズムズして眠れないジンさん。周りもちょっと起こしてみたり。理由は分かってるらしいが?・・獄中小説・獄楽/休日24時 Vol.8 につづく
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