『閉め忘れ』
しつけに厳しかった母から言いつけられていたことのひとつに、「部屋の戸を閉めて寝ること」というのがあった。
よくわからないルールだったが、そういうものなのだろうと律儀に従っていた。私としても、狭い家のなかで戸を一枚隔てるだけでも、自分の空間が守られるような気がして、都合がよかった。
ある日、母が夜勤に出ることになり、私はひとりで夜を過ごすことになった。小学2、3年生のころだったと思う。当時からどことなく大人びてませた感じだった私は、特に不安を感じることもなく、ひとりで過ごすことを申し出た。
母が用意した晩御飯を食べ、お風呂にも入り、遅くまでテレビを見た。寝る前に食べてはいけないと言われていたスナック菓子を食べる。いつもよりおいしい気がした。23時を超えてもゲームを続ける。誰にも怒られない。
こっそりと味わう自由に、私は高揚していた。
深夜2時を超えたころ、さすがに眠気に襲われた私は電気を消し、布団に寝転んだ。ひとりの夜がこんなにも楽しいものだったとは…。
戸を閉める、などという些細なルールの存在は、完全に頭から消えていた。充足感に包まれながら、重くなる瞼に体を任せる。
ぴた…………
ふと物音がして目が覚めた。(いや、正確には意識が覚醒しただけで目は開いていなかった)
板張りの上を裸足で忍び歩きするような音だ。母さん、もう帰ってきたのかな…と寝ぼけた頭でそう考えていた。
ぴた……ぴた……
…なんだかおかしい。裸足だとしても、いやに湿った音だ。
とてつもなく嫌な感じがして、息をひそめてぎゅっと目を閉じ、じっとしていることにした。寝ぼけて夢を見ているのかもしれない。きっとそうだ。
ぴた……ぴた……じゅ
足音が変わった。板張りから、私のいる畳の部屋に移動してきたのだ。どうしよう…。気になって確かめたかったが、怖くてとても目を開けられない。
じゅ…じゅ…がさ
また足音が変わった。今度は何だ?布?
そこまで考えて気づいた。布団だ。この足音は布団を踏んでいる。私が今寝ている、この布団を!
もうそのころには、何かが動いている気配をしっかりと感じた。仰向けに寝ている私の横を、何かが歩いている。
がさ……がさ……
来るな来るな来るな来るな!
必死に心のなかで唱えていた。汗だくになっているのがわかる。額を汗がだらだらと流れている。
がさ……がさ……………
足音が止んだ。でも、私は決して目を開けまいとさらに力を込めた。
顔に影が落ちている。何かが私の顔を覗き込んでいるのだ。目を開けなくても、こちらを見ている視線が痛いほど感じられる。ぶるぶる震えながら、私は目を閉じて耐えた。
顔に、生暖かい息がかかる。そして、声を殺してのどの奥であざ笑うような声がした。
たったそれだけのことに、全身に寒気が一気に駆け巡り、肌が粟立つのを感じる。本気で「死ぬかもしれない」とさえ思った。
どれくらい時間が経ったのかわからなかったが、やがてその何かは私から離れていく気配がした。
がさ…がさ……じゅ…じゅ…
ゆっくりと歩きながら、それは遠のいていく。どこかへ帰るのだろうか…。ほっとして、体の力が抜けていく。そのとき、
バリバリバリッ!
と大きな音がした。ガラスが何枚も同時に割れたような音だった。それに驚いて、私は思わず叫びながら飛び起きる。
板張りの台所と畳の部屋を隔てるガラス戸の向こうに、何か大きな影が立っているのが見えた。こちらを見て、あの喉の奥から響く嘲笑を浮かべていたような気がする。
「ちょっと、あんた何したのこれ!」
いら立った母の声で気が付いた。もう朝になっている。汗だくで体を起こしたまま、ぼんやりしていたようだ。
「聞いてるの!こっち来なさい!」
怒鳴っている母のいる台所へ行くと、眉を吊り上げた母が床を指さして言う。
「なんでこんな床が濡れてんの?!あんた夜なんかこぼしたやろ!」
「…ちがう。私やない」
「あんた以外にだれがおんのよ!ちゃんと掃除しときなさい!」
ぷりぷり怒る母は私に雑巾を渡して、ぶつぶつ文句を言いながら台所を出ていった。
濡れた床を掃除しながらガラス戸を見たが、傷ひとつ入っていない。あれは夢だったのだろうか。
その夜以来、夜は必ず戸を閉めて寝るようにしている。私の顔を覗き込んだ何かにも会っていない。
本当に寝ぼけていて、たまたま見た夢だったのかもしれない。
でも、一人暮らしをしている部屋で、朝開いている扉を見ると、あの足音と生暖かい息遣い、そしてあの嘲笑を思い出してしまう。