大人がいない
キリストのように慈悲深い悟った大人たちが、まとめあげている世界があるのだと信じたかった。
自分の未熟さをどこまでも赦してくれる。寄りかかっても、受け止めてくれるそんな他者が私の前に現れてくれることを。
今、どこをどう歩いても、そんな私の理想を体現した人間はいないことを知る。
みなが自分のことで精一杯で、一生懸命で、色んなことが分からないまま、手探りの状態で過ごしている。
もし私の欠点を含め赦す人がいるとしたら、その存在は自分自身であって、自分の理解者になることから始めなくてはならない。
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つい先日、姉が新しい生命を授かっているということを両親から教えてもらった。
また新しい『家族』が増えるのだ。
喜ばしいことだと素直に祝福したい。でも、実際のところは問題だらけなのだ。
私には子供を産み育てるという経験がないので、姉の妊娠については驚きというよりも畏敬の念にまで達する。
この10年以上、3人の子供たちを育てることに殆どの時間をかけてきた姉が、また更にこの先長い時間をかけて子を育てることに時間を使うのだ。私には想像がつかない。
姉妹として繋がっている人間とここまで違う性質を持っていることに改めて考えさせられる。
子供を育てる大変さも楽しさも何も知らない私は姉の選択を傍観するように受け止めた。
ここまで文にして書けば、あたかも姉が子供思いで面倒見の良い人柄に感じられるかもしれないが、実は決してそのような人間ではなく、自身の利己的な感情に忠実な一人のか弱い女性なのだ。
これ以上踏み込んだことは書けないが、姉には姉の悩みと苦労と哀しみを背負っている。
姉は助けを求める声を持っていない。自分が何に悩んでいるかも、自分がどんな状態で苦しんでいるかも理解できていない。自分自身のことを知らないまま、家庭の中で、大人の役割と反応を周囲に求められる。そんな哀しいことがあっていいのか。
姉がみている世界はどんなものだろう?
私は「親」として彼女を見定めず、「大人」としてカテゴライズせず、ひとりの未熟な人間として彼女を眺めたい。
子供を育てる身になったとして、ずっと大人でいることができる人はいるのか?
どうか姉自身が自分の愉しみのために生きてほしいと願っている。
できれば自身の感じていることを素直に打ち明けられて、受け止めてくれる場や人間が誰の側にもあってほしい。弱さを蔑ろにされる社会や環境の中生きていくのはあまりにも貧しすぎると思いませんか。
何かを達成すること、気力を振り絞って前へ進んでいくことばかりに気を取られすぎては、本当の意味での穏やかな生活は訪れないのではないですか。
ポジティブもネガティヴも引っくるめて共有するために『家庭』という場は創られたのではないのですか。
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人はみな、人生をかけて観たいシナリオが違っていて面白い。
到底受け入れられないような価値観でさえも、決して交わることのない愛情表現の違いも、そのまま垂れ流しで放っておく。
他者の感じる豊かさや幸福のことは本当の意味では分からないままなので、理解しようと努めるだけでいいのだと思う。
親が子を心配したり、コントロールしたくなる気持ちがあることは性として仕方ないとしても、子供達が進みたい道を選んでいけることを信じていくしかないのだ。
いくら血の繋がった家族といえど、異質だらけの他者の寄せ集めてできた集団なのだから、問題が起きない訳がない。
一見冷たい印象に思えるけれど、他者に必要以上に介入しないでいることは大事だ。
断絶した人間関係に揉まれながらも、些細な思いやり、優しさ、温かさがほんの一瞬の出来事だとしても感じられる時、そういうものがどれだけ偉大なことなのか、よくよく分かるようになった。私はその感覚を忘れないようにしたい。