宗教であり、血液であり。
きまぐれな妄言だと自分で保険をかけたことで、やっぱりきまぐれな文章をきまぐれに思い出してはきまぐれな時間にきまぐれに書き殴る。
急かされることなく自由でいたい。
そんな私は言葉の重みにはよく気を遣う性分で、ことあるごとにその組み合わせに感嘆する。
人はそれぞれに文化がある。
琴線の触れ方はそれぞれである。
無意識のうちに摂取した趣味や娯楽、形成された環境や人間関係。
自分たらしめるものは無意識に形成されてきた。
趣味や娯楽、強いては勉学においても、それらは無駄なもの感じるものも多い。
しかし、
無駄なことこそがその人たらしめる器を作る。
太宰治がそんなことを垂れていた記憶があるが、果たして何の書物か忘れてしまった。
私の「無駄」を考えてみた時、
間違いなくそのひとつには音楽がある。
思想を形成するにはうってつけであろう。
ホントを脱ぎ捨て、
ウソを着飾り、
誰かとオナジでいたいのか、
チガウ何かでいたいのか、
RADWIMPSの『π』という楽曲が、ふと思い浮かんだ。
もちろん幾多の音楽が地肉となっているが、私の中に流れる葛藤が言葉として立ち現れた気分のする詞である。
私はこういった趣味を、一種の宗教だと思わずにはいられない時がある。
改めて宗教を考えてみると、そのひとつにセーフティネットのような役割があると思っている。
その人の生きる指針。
道を見失わないように生きるための安全網。
であるならば、現代人は無宗教なのではなく、宗教に起き変わる何かをすでに手に入れているのではないだろうか。
それが無駄事、「趣味」ではないだろうか。
無駄なことがその人たらしめる。
その人たらしめるものが指針。
それこそがまさしく趣味。
血となり、肉となる。
その「宗教」の多さ、深さこそ、
葛藤してきた証拠だとも思う。
音楽、映画、ドラマ、ラジオ、小説、漫画、アニメ、お笑い。
私には「宗教」が多い。
以前も垂れたように、
趣味の多さが孤独であった証拠にもなるように思える。
ただし、孤独であることは決して良からぬことではない。
向き合う相手が自分ひとりなだけである。
趣味が宗教となり、
その深さで孤独を知る。
だからこそ同じ趣味の人間というのは、
その深さが似通うにつれて、
孤独を共有することができる。
人の孤独を理解することもまた、
「無駄」なことのおかげなのかもしれない。