飽くまで
『本を読まないということは、
そのひとが孤独でないという証拠である。』
太宰治が『如是我聞』に記した言葉である。
この言葉を現代的に、ポップに、
解釈を広げて変換するならば
「趣味がないというのは、
そのひとが孤独から遠い場所に在る証拠である。」
とすることができるのだろう。
孤独からの距離。
それが趣味で表せるように思える。
そしてまた、こうも言い換えられるのではないのだろうか。
「趣味が少ないというのは、
そのひとが自らの欠けているものが見当たらないことの証拠である。」
仰々しいかもしれないが、
趣味とはそのひとの虚を埋めるものでもある。
空いた穴、欠けている部分に嵌める。
そうして嵌めた趣味というピースが揃い、
そのひとたらしめることになる。
私は多趣味である。
ならば、
必ずしも褒め言葉ではないのかもしれない。
孤独に苛まれているほど、
趣味の広さも、深さも、
その度合いを大きくしていく。
音楽、映画、ドラマ、ラジオ、
小説、漫画、お笑い。
私たらしめる趣味を並べ、思う。
私は恐らく孤独に近いところに在り、
同時に「言葉」が欠けているのだと。
忙殺の日々でも間隙を縫い、
耳を澄ませ、目を見開き、
人の言葉を身に嵌めていく。
精神が死んでしまうのを恐れているのかもしれない。
なんの考えもなく発する言葉。
脳を通過せずに排出される言葉。
「流行り」を免罪符にする言葉。
虚空に漂っていくそれらは、
崩れてしまった精神の成れの果てだと思わずにいられない。
それ故に、考え続けなければならない。
言葉の扱いは体を表す。
その人となりは、
言葉の選び方により決まるように思える。
礼儀の問題ではない。
使う言葉そのもの、
その言葉の本当の意図、
その言葉を発する時機。
私たちは言葉を介してでなければ、
物事を捉えることができない。
「本」というものがそこにあったのではなく、
そこにあったものを「本」と名付けたが故に、
それは「本」たり得る。
私は、
言葉に美しさを感じてしまう性分なため、
言葉を蔑ろにされたくはない。
私自身が完全に実現できてはいないが、
然して、
言葉を蔑ろにするのは精神の死であるならば、
私は精神を豊かにしたい。
多趣味なのは、
他方では精神の豊穣を、
他方では虚無の克服を、
密かに自らの中に願っているからだろう。
こうして言葉にすること。
これも趣味の一つであるのならば、
果たして豊穣と克服の
どちらに比重が寄っているのだろう。
精神の豊穣であればと思うものの、
虚無の克服もまた一興なのかもしれない。
太宰治『如是我聞』
メモ
言葉を蔑ろにするのはまさに、精神の死である。