
創造行為と宗教性
~とある哲学グループへの投稿から転載~
創造行為と宗教性・1
~祈りと美~
創造行為とは、私においては、自身の魂の救済のための活動に他ならない。それは、祈り、そのものと言ってもよい。
太古の時代。宗教の発生と同時に、創造行為、芸術行為は始まった。それらは、パラレル、相関性を持つ。脳の活動野の拡大により、原始の人々の感性に、宗教的な領域がもたらされ、その宗教的心境、感覚というものを表すために、創造行為も発生した。壁画、儀式のための祭壇、呪具、神像などがそれである。時代を経て、より一層、宗教と芸術は密接になる。宗教上の教義を大衆に示すため、古い時代には、芸術(音楽、絵画、彫刻)が、そのメディア、ツールとしての機能を担っていたからだ。今日に連なる芸術的技術の発達は、このように宗教活動の手段であったことに負うところが大きい。極々簡単に宗教と創造行為の発生的、歴史的関連性をみてきた。
次に、創作行為自体における神秘、宗教性というものに着目したい。
絵画表現は、究極的には、光と影の追求であり、色彩の体験である。平面で、遠近、立体を表現するのは、明暗の調子の調節によるところがほとんどである。光の微細な変化、色彩の妙技で、存在を顕にしていくのが、簡単に言えば、「描く」ということである。描くことは、画家にとって、光の洗礼を受けながら、色彩の泉で水浴びをするような行為なのである。このように見ると、描くという行為自体が、非常にプリミティブな宗教体験であることがわかる。
題材が宗教のそれである必要はない。一輪の花であれ、自然の風景であれ(逆にいえば、自然な風景だからこそ、なのだが、、そこには溢れる光、色彩の渦が渦巻いているから、、)色と光を操るということは、そういうことなのである。
アートセラピー等は、この感覚を利用したものであろう。瞑想、呼吸法、ヨーガ、密教の身体技法などで、体験者が体験する光の体験などの際の脳内体験と近いものでもあるだろう。画家のこの様な色と光の体験を鑑賞者は追体験することになる。それが鮮烈であるならば、それは、その画家が優れた画家であるということだろう。
ここまでは、描くテーマ、題材ではなく、描く行為そのものがもたらす宗教性に着目して見てきたが、次は、私においては、と限定的ではあるが、そのテーマ、題材、また描く際の心的状況というものについて、考えてみたい。
描く際の心的状況、、回りくどい言い回しになってしまったが、つまりは、何を求め描くか、描くことで、何を追求するのか、ということである。先日ある投稿に残したこのコメントが、創作するときのスタンスを物語るものだと思うので、抜粋したい↓↓↓↓↓
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私の創作に対する考え方。(詩作に特化して書かれていますが、創作全般についてとお読みいただけたら、幸いです。)
私は、詩のような(に見える)言葉の連なりを人に見せて満足したいわけではない。
私は、そういうことがしたい人間ではない。自分が感じた、ある微細な感情の場所を言葉で探ってるだけで、その感情の場所を共有することで、なにか感じたり、楽になるひとがいたらいいなという気持ちで、自分のその言葉の地図を、時たま、シェアしてるいるのだと思う。そして、もし、共に、感じあえる時、人があるのなら、それは自分に与えられた孤独な生において、その孤独な生の意味を紐解くような貴重な一瞬を与えられたことに他ならないのだと感じる。そのような手探りが私にとっての言葉であるのだと思う。(時に、絵画表現であり、音楽であり、ダンスであり)というのが、
今回、読者様と対話して得た自分の詩作に対する考え、態度の自覚です。
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文中にもあるように、詩作について書かれたものではあるが、創作活動全般に置き換えることが出来る。
「自分が感じた、ある微細な感情の場所を言葉で探ってるだけで、その感情の場所を共有することで、なにか感じたり、楽になるひとがいたらいいなという気持ちで、自分のその言葉の地図を、時たま、シェアしてるいるのだと思う」
自分においては、この言葉が、まさに、ものを作る。ものを表現する。初動であり全てであると最近とみに感じる。
ある時は、言葉で、ある時は、絵筆で、私は、自分の心の地図を示しているのである。それが、心の表層的な部分のこともあれば、ごく深い部分、時には無意識の層に触れることもあるかもしれない。そのように、自分の心を探り、感情を眺め、それに形を与えるため、命名するため、再認識するために、私は、描き、語り、写真を撮るのだと思う。
繰り返しになるが、その自身の心の探求、心のひだのある地点を見つけ出し、それを眺め、新しい、ふさわしい形を与え表現すること、そのような魂の軌跡が、私においては、サブタイトルにあるように、「祈り」に他ならない。
私は、特定の信仰を持つものではないが、神を感じ、神に語りかけ、生きてきた、日々過ごしている人間である。ここで自分の信仰について語るつもりはないが、まったくの無関係ではないので、一応触れておくことにする。
と、ここで、ひとまず筆を置きたい。
マックに来て、お茶しながら、書いていたのだけれど。娘が退屈し始めたので。笑
また、そのうち、続きを投稿します。よろしくお願いいたします。
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哲学・宗教・芸術・心理学等で掬い取れないが、精神にとって大切なものを汲み上げるのは優れたスピリチュアル。哲学・その他が掬い上げ、明瞭化した結晶ともいえる大切な概念を粗雑に混濁し、恣意的に流用するのは悪質なスピリチュアル。
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