「小説 名娼明月」 第46話:零落の底
阿津満(あづま)母娘が今度引越した裏町の家は、六畳の一間に二畳の板敷が付いている。門口から台所まで、一目に見透さるる棟割である。
亀屋から貸してくれた世帯の道具いろいろを、それぞれの所に並べ、綺麗に払いて、お秋はまず母の床を敷いた。南窓を頭に母を臥(ね)さして、母の枕元に坐れば、近所の色黒き男や、人相の悪い女房どもが、移り替り門口から母娘を窺(うかが)いに来る。自分たちの仲間としては、余りに品あり美容ある母娘を、どことなく警戒して見ている模様である。妙に疑い深い目に皺を寄せて睨んだようにして行く者もあれば、袖曳き合って嘲笑って行く者もある。
母娘にとりて、このくらい不気味なことはないが、さて何と挨拶してみてよいのか判らぬ。ただ浅ましく、また恐ろしい。それに、今まで誰が住んでいたものか、壁は黒く燻(くすぶ)って、所どころ破(ひび)が入って落ちかかっている。天井なき屋根裏からは、塵埃(ちりほこり)が房のように下がっておって、払(はた)けば払くほど黒い物が落ちてくる。母娘はこれまで巡礼もした、窶(むさく)ろしき木賃宿(きちんやど)にも泊った。随分汚いところにも馴れてきたが、まだ今度のようなところは生まれて初めてである。一人寝(い)ね、一人坐って、心細く話していると、いまさらながら、自分たちの零落(おちぶ)れたる境遇が、つくづくと思われて、涙さえ誘うてくる。口にそれと語らぬだけ、思いは深い。
やがて日暮れごろになれば、昼間稼ぎに出ていた近所の者が続々帰ってくる。一日の日雇いに土塗(どろまみれ)となった者、屑籠担いた紙屑買い、唐人の姿を装うたる飴売り、下駄の歯替え等、種々様々である。
ああ、今日という今日から、自分たちも、これらの連中の仲間である、と思えば、悲しくもあり、情けなくもある。しかしこれで一安心であるという落ちつきも出てきた。
それから十日余りも経った。
「早く何かの仕事に取り付かねば、またも自分たち二人は、苦しい破目に陥らねばならぬこととなるであろう…」
と、様々に心を砕いてみるけれども、これまで何不自由なく暮してきた身であれば、なかなかによい考えが浮かばぬ。そのうちに、かの筑前の商人から貰った金も残り少なくなってゆく。
「もうこうなっては、一日もはやく…」
と焦ってはみれど、いたずらに気を揉むばかりである。針仕事をと思うけれども、こんな長屋では、頼んでくれる者がない。茶や琴の指南の看板を掛けても、もちろん来てくれる者はあるまい
と思っているとき、お秋はふと、この長屋の中に門弾きの盲(めくら)女のいることに気付いた。お秋はある日、この盲女に逢って、それとなく角弾きの道筋や収入(みいり)を訊いてみたら、一夜三百五十文くらいは取れると云う。
晩に入ってからの門演(かどづけ)であれば、昼間のように顔を曝さずとも済む。耻(は)ずかしいことではあれど、今の身には、こんなことより外(ほか)にできそうにもない。
「一つ思い切って、門演(かどづけ)に出てみようか…」
とお秋は、窮して却って元気も湧いた。