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「小説 名娼明月」 第59話:悲しき邂逅(かいこう)

 百姓は、身を振るわせながら言葉を続けた。

 「世の中に、なにが恐ろしいと言っても、今朝ぐらい恐ろしい目に逢ったことはござりませぬ。
 私は、今宿在の百姓、太郎右衛門の忰(せがれ)、太郎兵衛(たろうべえ)と申す者。
 今日は博多まで用があって、一番鶏に宅(うち)を出(い)で、そこの長垂の山を越しかかりし折抦(おりから)、思いがけなくも、にわかに起こりし吶喊(とき)の声に、胆を潰して逃げ場を失い、深き笹の茂りに身を隠して見ておれば、一人の武士をば十人余りの山賊が取り囲んで斬りかかりました。
 何でも、山賊の頭が、その武士のためには親の敵(かたき)らしく、武士は見る間に、その山賊の頭と、今一人の山賊を斬り倒しました。
 それから、どうなりましたやら、近くにおっては、どんな災難喰うやもしれずと思い、腰抜かして、ここまで転び落ちて、気を失いおりましたる次第」

 と聞いて、お秋は、もしや、その武士というのが、我が尋ぬる良人(おっと)、金吾ではないだろうかと思って、眼を輝かせ、胸を轟かした。
 世の中には、親の敵を睨(ねら)う武士は、随分たくさんある。それが決して良人金吾に限ったことではない。けれども、永い月日の間良人を捜し廻り、それがために世の中に、ありとあらゆる苦労辛酸の数々を嘗め尽くしたるお秋の身にとってみれば、敵を睨(ねら)う武士のどれもこれもが、金吾のように思われる。
 今お秋は、はしたなくも、百姓太郎兵衛から山中の仇討ちの話を聞くに及んで、すぐにそれを金吾の身の上として考えたから、ちょっとそこに待ってと言いも終わらぬうちに、サッサと山路を登り始めた。
 
 「それは危ない!」

 と、訳も判らずに引留める太郎兵衛には目もくれず、お秋の姿は、やがて太郎兵衛の目から山の中に消えた。
 藪を潜(くぐ)り巌角(いわかど)を攀(よ)じて、上へ上へと辿り行けば、向こうの方から苦しげな唸り声が聞こえてくる。
 お秋は、恐ろしいのも忘れて、その声のする方に走り寄った。
 一人の男が鮮血(あけ)に染んで、草の中に倒れ伏している。しかも、今まさに虫の呼吸(いき)である。可哀相である、苦しいのであろう、と思いながらも、見ていると、顔のどこかに見覚えがあるようである。
 お秋はよく、その男の顔の血を拭いてみて驚いた! かつて自分を誘拐(かどわか)さんとしたことのある、悪漢管六である!
 お秋は、旧き怨みを思い出して管六を怨むよりは、この管六がどうして、かの中国からこの九州へ来て、こんな山の中に、かかる深傷(ふかで)を負うているであろうか、それが不思議でならなかった。できるならば、その訳を聞いてみたいと思ったが、管六は、まもなく目を閉じて、息が絶えた。
 お秋は、なお他に何事かあっているように思われて、気がかりでならぬ。管六をそこに打ち捨てて、たどって行けば、そこにも血塗れの男が、呼吸(いき)も絶え絶えになって岩の根に転んでいる。
 管六といい、この男といい、百姓太郎兵衛の話の山賊に相違ない。
 して、山賊をかくまで切り散らしたる相手の武士というのは、いずこに行ったものであろう。早くその武士が見たいものであると、なおも進んでゆけば、すぐ向こうに、草葺の家の屋根が見えるあれこそ、山賊の住家であろう。
 と、それより四五歩を行きて、お秋はさらに驚いた!
 良人である!
 我が尋ぬる良人、金吾が、頭から手足まで血に染んで、草の上に倒れている!
 
 「さては吾が良人! 懐かしや!」

 と、狂気のように駆け寄って、抱え起こせば、金吾もそれと知って、犇(ひし)とお秋を掻き抱いた!

 「やや、お秋どの、どうして、ここには…」

 と、僅かに一口言い得ただけで、あとは嬉しさの極みの涙が流れて、頬の血を洗った。



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