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情報の力が左右する未来――ハラリ最新刊『NEXUS』を読み解く(第1回)
はじめに
私たち人類は、自らを「ホモ・サピエンス(英知ある人)」と呼んできました。しかし、現代社会を見渡すと、果たして私たちはどれほど“英知”を発揮しているのか――その問いが突きつけられています。
Yuval Noah Harari(以下、ハラリ)の新著『NEXUS』では、情報こそが人間社会を動かす原動力であり、やがては人類の命運を左右しうると説かれています。そして本書の序章(Prologue)や冒頭部分では、とりわけ気候変動の危機やAI(人工知能)がもたらす制御不能のリスクが強調され、これらへの対処が人類社会最大の課題として浮かび上がります。
本マガジンでは、『NEXUS』を邦訳刊行の 2025/3/5 に先がけて解説していきます。第1回として、まずは序章のエッセンスを振り返りながら、「膨大な情報があふれる現代において、人類はどのように“真の知恵”を身につけ、危機を乗り越えていけるのか」という問いを立てます。読者の皆様に分かりやすいよう丁寧に解説していきます。
1. なぜ今「情報」が問題となるのか
かつて人間は、狩猟採集の生活から農耕へ移行し、産業革命を経て、飛躍的に技術力や生産力を高めました。「私たちは多くの発明と発見を重ねたが、果たして“賢さ”も同様に進化してきただろうか?」――ハラリはこの厳しい問いを序章で投げかけます。
たとえば、以下のような事例が指摘されています。
地球環境の危機: 温暖化や自然破壊が深刻化し、人類そのものの生存基盤が脅かされている。
巨大技術の暴走: AIなどの新技術が制御不能に陥るリスクがある。
国際的緊張の高まり: 各国の関係は悪化し、協力体制の崩壊や世界大戦の再来すら取り沙汰される。
こうした問題に対し、ハラリは「情報こそがカギを握る」と訴えます。人類社会は「情報を軸に協力する巨大ネットワーク」として機能してきた一方、誤った情報や偏見、虚偽が大規模に広がることで、破滅的な行動にも繋がりうるからです。
1.1 例:ナチズムやスターリニズムの“情報操作”
歴史を振り返ると、ナチズムやスターリニズムといった強力な全体主義は、真実とかけ離れた情報を基盤に大きな力を得た事例として挙げられます。ナチス・ドイツもソ連のスターリン政権も、大衆の信じる「物語」を巧みにコントロールすることで絶大な権力を確立しました。ハラリは「無知は力である」というジョージ・オーウェルの言葉を引用し、集団的な思い込みが巨大なネットワークを維持する原動力になり得ると述べています。
こうした例を見ると、情報技術が「真実」を広げるどころか「虚偽」を効率的に拡散させ、巨大な暴力へと結びついた歴史は少なくありません。
1.2 「素朴な情報観」と「ポピュリズム的情報観」
ハラリは「素朴な情報観(the naive view of information)」と「ポピュリズム的情報観(the populist view of information)」を対比させます。
素朴な情報観:
「情報が大量にあればあるほど、私たちは真実に近づける。そして真実を把握できれば、より英知に基づいた意思決定ができる」という楽観的な見方。20世紀末~21世紀のインターネット普及やSNS拡大に伴い、オープンな情報環境こそが社会を良くすると考えられてきました。例:ロナルド・レーガン(1989年)の「情報は近代社会の酸素」という演説や、バラク・オバマ(2009年)の「情報が自由に流れるほど社会は強くなる」という上海での発言など。
Ray Kurzweilは著書『The Singularity Is Nearer』(2024年)で「情報技術の発展こそが人類の諸問題を解決し、長期的には生活水準を向上させる」と主張しています。
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ポピュリズム的情報観:
「すべての情報は“武器”であり、エリート層が自らの利益のために情報を操作している」という疑念から出発する見方。例:ドナルド・トランプやジャイール・ボルソナロのように、「既存の科学的・専門的機関は嘘をついている」と大衆に訴え、自らは“真実の代弁者”を名乗るパターンが挙げられます。
一方で、こうしたポピュリズム的な視点は、社会の複雑な課題を解決する大規模な協力体制を毀損してしまい、国際協力や科学的アプローチが必要な問題(気候変動、感染症対策など)で深刻な障壁となりうると指摘されます。
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2. 歴史が証明する「情報力」の光と闇
ハラリは序章で、情報の増大によって子どもの死亡率が大幅に低下してきた例を挙げています。一方で、情報が増えても戦争の危機や環境破壊はむしろ深刻化しつつあります。この両面が、情報社会の本質的なジレンマを示しているのです。
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