
「情報」とは何か?――ハラリ最新刊『NEXUS』を読み解く(第2回)
はじめに
前回の記事では、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の最新作『NEXUS』の「プロローグ」をご紹介しました。そこでは、人類が築いてきた膨大な情報と強大な力、そして迫り来るAI時代における危機的状況が大きな問題提起として示されました。
今回の記事では、第1章「What Is Information?(情報とは何か?)」に焦点を当て、「情報」というものはそもそもどのような性質を持ち、なぜ歴史の中で巨大な影響力を発揮してきたのかを深く探ります。単に“真実を写すだけ”ではない驚くべき情報の一面に迫り、その新たな視点から私たちが学ぶべきことを見出していきます。
1. 情報は「真実の写し」ではない?
1.1 第一次世界大戦に見る情報の「力」
本章の冒頭で紹介されるのが、第一次世界大戦中の伝書鳩「Cher Ami(シェル・アミ)」のエピソードです。
1918年10月、フランス北部で塹壕を巡る激しい戦闘が続くなか、アメリカの部隊「ロストバタリオン」は前線を越えて取り残され、さらに味方の砲撃が誤って自分たちを襲う危機に直面しました。絶体絶命の状況で、指揮官のチャールズ・ホイットルジー少佐は伝書鳩に「正しい位置情報を書いたメモ」を託します。銃弾の雨をかいくぐった鳩は奇跡的に飛び立ち、40キロ以上先の司令部まで約45分で到達しました(負傷しながらも、右足にかろうじてメモを残したまま)。これにより誤爆は止まり、兵士たちは救出されたのです。
ここでは「紙に書かれた文字=情報」と考えるのが自然です。しかし、第1章でハラリ氏が強調するのは、伝書鳩そのものも「重要な情報」になり得るという視点です。なぜなら、捕獲されたり撃ち落とされたりすれば、「敵軍のスパイ網が存在する」というメッセージそのものになるからです。このように、私たちは普段「情報」と聞くと文字や言葉を想像しがちですが、実はモノや行動、存在自体が文脈次第で情報となり得るのです。
1.2 情報の「ナイーヴ・ビュー」とは?
多くの人が抱く「ナイーヴ・ビュー(素朴な理解)」では、情報とは現実を表すもの、つまり「正しい(もしくは間違った)事実を写し取るもの」だとされます。
正しければ「真実を伝える情報」
間違っていれば「誤情報(ミスインフォメーション)または虚偽情報(ディスインフォメーション)」
そしてこの見方では、誤情報による問題を解決する手段は「より多くの正しい情報を広めること」だと考えます。これはアメリカ合衆国の最高裁判事ルイス・ブランダイスが1927年に示した「誤った言論に対する解決策は、さらなる言論である」という有名な原則(いわゆるカウンター・スピーチ・ドクトリン)にもつながります。
ところがハラリ氏は、このナイーヴ・ビューこそが、現代の膨大な情報洪水を正しく理解できない原因だと警鐘を鳴らします。なぜなら、事実を誤りなく伝える情報だけで歴史が動いてきたわけではないからです。
2. 代表例:占星術・聖書が示す「つながりとしての情報」
2.1 巨大市場に成長した占星術
現代人の多くは、占星術の星読みを「科学的根拠が希薄だ」とみなすかもしれません。しかし、第1章で指摘されるように、占星術は歴史上大きな役割を果たしてきました。ローマ帝国の皇帝をはじめ、政治や宗教に強く影響し、今でも数多くの人々が星占いを楽しんだり、日常や重要な決断に取り入れたりしています。
2021年時点での世界における占星術市場規模は約128億ドルと推計されています。
たとえ科学的真実を十分に表していなくても、これほどのビジネス規模を誇り、多くの人を惹きつけているのは、占星術が「人々を結びつける」強力なストーリーを提供しているからに他なりません。
2.2 聖書の誤りと巨大な影響力
もう一つの例として、ハラリ氏は「聖書*を取り上げます。
創世記に描かれる大洪水の物語など、考古学や遺伝学から見れば事実と大きく乖離する部分が多々あります。にもかかわらず、聖書は長きにわたって数十億人に影響を与え、社会や政治、文化の基盤となってきました。これもまた、情報の本質が「どれだけ正確に現実を反映しているか」ではなく、「どれだけ強力に人々を結びつけ、新たな現実を作り出すか」にあることを示しています。
歴史上、「これこそが現実だ」という正確性よりも、「大勢の人々を同じ価値観や行動原理でまとめる情報」の方が遥かに大きな社会的インパクトを持ってきました。ときに誤った認識や解釈でも、それが大きなネットワークを形成し、新たな行動や社会秩序を創出してきたわけです。
3. 情報の役割は「結びつける」こと
3.1 音楽に見る「つながり」の本質
なぜ誤りを含む情報が強い力を持つのでしょうか? ハラリ氏は「音楽」の例を挙げます。音楽は「世界を正しく描写」してはいませんが、それでもクラブで踊る人々を一体にしたり、軍楽隊の行進を揃えたり、宗教儀式で信者を感動させたりと、人々を強固に結びつける役割を果たします。そこに現実を写す・写さないは関係ありません。音楽は「人と人を結びつける情報」として機能しているのです。
3.2 DNAは真実を写していない
第1章の最も斬新な視点は、「DNA」すらも“真実を写すため”にあるのではなく、生物学的なネットワークを形成するためだ、と指摘している点です。DNAには「ライオン」や「恐怖」といった外部世界や感情を直接表現する“文字列”はありません。それでもDNAが生み出す化学反応によって、細胞同士が協調し、筋肉や血管、神経などがつながり合うネットワーク=生命活動が成立します。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?