
物語がつむぐ人類史――ハラリ最新刊『NEXUS』を読み解く(第3回)
はじめに
「なぜ私たち人類は、これほど大人数なのに協力できるのか?」——これは長らく多くの人が抱いてきた疑問です。私たちを含むホモ・サピエンス以外の動物、たとえばチンパンジーは、せいぜい数十匹規模でしか安定した集団を作れません。しかし現代の人間社会を見れば、14億人を超えるカトリック教会、同規模の人口を持つ中国、さらには80億人がつながるグローバル貿易ネットワークまで、とてつもない規模の「つながり」が存在しています。
その背景には、私たちがしばしば見落としがちな「物語(フィクション)」の力があります。ときにはチャー・アミ(伝書鳩)の英雄譚やイエス・キリストの神格*、あるいは「コカ・コーラ=青春」といったブランディングなど、実は驚くほど多くのものが「物語」によって人々の心と行動を結びつけているのです。本記事では、ハラリの最新作『Nexus』第2章をベースに、この「物語」と人間社会の深い関係を詳しく解説します。
最終的にお伝えしたいワンメッセージは、
「私たち人類は“物語”によって巨大なネットワークと秩序を築き上げる一方、それを維持するために真実をねじ曲げる危うさとも常に隣り合わせである」
ということです。では、その物語の世界へ足を踏み入れてみましょう。
1. 物語が可能にする大規模な協力
1.1 サピエンスが世界を支配する理由
チンパンジーやネアンデルタール人の集団規模が限られていたのに対し、ホモ・サピエンスは人数無制限ともいえる柔軟な協力を実現しました。その転機は約7万年前とされる「認知革命」期に起きたと考えられています。当時の化石や出土品を調べると、異なる集団同士の交易や芸術的伝統が広域で成立していた形跡がみられます。
なぜこれほど大きな協力が成立したのでしょうか? そのカギは、人間の脳が「フィクション」を語り、信じられる力を獲得した点にあります。たとえばネアンデルタール人は小集団内での狩猟技術などは高かったものの、数百~数千人規模での連帯はつくれなかったようです。一方、サピエンスは「同じ物語を信じる」だけで、実際に会ったことのない遠い集団とでも協力できるようになったのです。
1.2 柔軟性と大人数が同居する不思議
じつは私たち人間が深い信頼関係を築ける人数には“上限”があるとされます。心理学的には「ダンバー数」と呼ばれ、せいぜい150人程度という説もあります。ところが、世界には何千万、何億という単位で同じ宗教を信仰する人々がおり、企業ブランドに忠誠を誓う消費者、国家に帰属意識を抱く国民がいます。
カトリック教会:約14億人
中華人民共和国:約14億人
地球規模の貿易ネットワーク:世界人口80億人
下のように数値を対比してみると、私たちが個人的に顔を知る数など遥かに超える大集団が、「信念」や「物語」を通じて連携していることに驚かされます。
2. 「物語」の実例:魅力と危険性
2.1 ヒーロー鳩「チャー・アミ」の物語
第一次世界大戦中、“失われた大隊”を救った伝説の伝書鳩「チャー・アミ」の物語があります。弾雨をかいくぐり飛行し、重傷を負いながらもメッセージを届け、多くの兵士の命を救ったという英雄譚です。
しかし近年、歴史家の研究によって「チャー・アミが本当に“あのメッセージ”を運んだかどうかは不確実」だと判明しました。大隊の位置情報は鳩が到着する20分前にすでに把握されていたという軍の記録もあるのです。ではなぜ、ここまで事実と異なる話が広まったのでしょうか?
軍の広報が「物語」を魅力的に仕立て、愛国心を鼓舞する意図で流布した
メディアがさらに脚色し、兵士本人すら「実は鳩に救われた」と思い込むようになった
こうして生まれた感動的な「ヒーロー鳩」のストーリーは、事実以上に人々を結束させる力を発揮しました。私たちはときに、このような“事実”かどうかよりも美しい物語を信じることで協力や団結を得るのです。
2.2 イエスの再解釈
さらに極端な例として、イエス・キリストがあります。
歴史上のイエスはユダヤ人の地方宗教家で、ごく少数の弟子を得ただけの存在だった可能性が高い
処刑時には「犯罪者」として十字架にかけられた
ところが死後、イエスは「宇宙創造神の化身」として壮大な物語へと格上げされ、その伝説が世界中へ広まることで、20億人近いキリスト教徒がつながる強力な宗教ネットワークを形成しました。
これは単なる「嘘」ではなく、信徒たちが深く感銘し、そこに自分たちの希望を投影した結果だと考えられます。こうした“物語の拡大解釈”は人びとをさらに結束させ、歴史を大きく動かしていったのです。
2.3 ブランドとカリスマの作られ方
現代のインフルエンサーやセレブも、しばしば「ブランド化された物語」で数百万人〜数億人ものフォロワーを獲得します。
実際は多くのSNSアカウントが専門チームによって運用され、イメージ戦略が徹底管理されている
一人ひとりが「その人」と実際に会うわけではなく、メディア越しの“物語”を信じてファン化している
これと同じ手法は企業の商品ブランドでも実施され、たとえばコカ・コーラ社が何十年にもわたり巨額投資をしてきた広告キャンペーンにより、「コーク=楽しさや若さの象徴」という物語が世界中で共有されるようになりました。飲みすぎると歯の損傷や肥満などのリスクもあるのに、そこはあまり語られず、「ポジティブな物語」だけが発信され続けるのです。
3. 間主観的現実とは何か
3.1 客観・主観・間主観の三重構造
ハラリ氏は、世界を以下の三つの階層に分けて考えるべきだと指摘します。
客観的現実: 石や山、隕石など、私たちの認識とは無関係に存在するもの
主観的現実: 痛み・喜び・悲しみなど、個人の内面だけに存在するもの
間主観的現実: 複数の人間が“同じ物語”を信じ合うことで成立するもの(国家、通貨、神、法律など)
ここで注目すべきは、間主観的なものは「集団の意識を共有すること」で初めて生じるという点です。たとえば「円」という通貨や「ドル」という通貨は、大勢がそれを“価値あるもの”と信じるから機能します。もし島に一人だけ取り残されても、銀行券や債券は動物から食料を得る手段にはなりません。
3.2 ビットコインや国家の事例
ビットコインのような暗号通貨は、典型的な間主観的現実の産物です。その価値は需要と供給、そして「多くの人がどう語るか」に左右されます。
2010年、1万BTCでピザ2枚を購入
2021年11月には1BTCが約6万9000ドルまで高騰し、1万BTCは6億9000万ドル(約700億円相当)になった
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?