6年5組、むつご会からの連絡。担任のS先生が亡くなられましたと、、
福岡の小学校の同窓会。
6年5組ムツゴの会。
なぜか去年から大盛り上がりで。
私は同窓会のために福岡までは行けないけど、グループラインには入れてもらって、みんなが度々集まっている写真や動画を楽しく拝見していました。
お花見、カラオケ、先生のお家へ、懐かしい小学校へなどなどイベントがいろいろで、地元にいたら参加できたのになあ、、と思う。
みんなの写真を見ると、Oちゃん、はっち、レイコ、アッコ、、女の子はあまり変わってない?
男子は、、よくよく見るとTくんかな、え~っ、全然わからないんですけど、、でも、たぶんYくんかしら?なんとなく面影があるわ。などなど。
とにかくもう50年も経っているのだ。
6年5組。
ムツゴ会。
とにかく仲良しだった。
担任のS先生は百歳になられたとか。
ご長寿でお元気そうでよかった、、と思っていたら、入院されあっという間に亡くなられてしまった。
「みんなでお通夜に行ってくるね」とはっちからラインがあった。
みんなでお花を出すそうなので、お花の人数に入れてもらいました。
ちょうど来週、はっちが息子さんとお孫さんに会いに東京に来ることになり、福岡に帰る前に一緒にランチする約束をしていたので、立て替えて頂いたお花代はその時に渡そう。
はっちに来週会うのも50年ぶり。
歳をとったものね。
6年5組、、懐かしい。
いいクラスだった。
S先生は50代くらいの貫禄のある女の先生だった。
厳しく教育熱心で、本を(結構分厚い)一冊読んで感想文を書くのが毎日の宿題だった。
毎週日曜日には自由研究と称して、大きな画用紙に自分の興味があることを研究して書かなければならず、塾にも行ってなかったけど毎日大忙しだったわ(研究が見つからないときはよく、ジャポニカ百科事典を丸写ししたりしていたなあ、、)
私は昔からぼんやりで(手ぶらで学校に行き母がランドセルを届けてくれたり)、動作も遅く、食べるのも遅く、よく泣いていた(主に先生に注意されて)
クラスメイトにはほんとに大切にしてもらった。感謝しかない。
先生は私をしっかりさせようと目をかけてくれていたのかもしれない。叱られることが多かった(今のバレエも同じ状態かも(笑))
ずっと学習係で先生の横でお手伝いをしたりしていた(ような気がする)
あの頃、「黄色いサクランボ」という歌が流行っていて、女の子の友だちと放課後体育館で踊っていたら、教頭先生に呼ばれて職員室で四人か五人で歌って踊ったことがある。
叱られるのかと思ったら、結構教頭先生ニコニコで、誉められた気がする。私が人前で踊ったのはあれが初めてだったかも(それで癖になったかも(笑))
5年5組から6年5組に持ち上がり。
二年間一緒だった。
私は四年生の終わりに転校してきたばかりだった。
5年5組の三学期に、S先生が事故にあって3ヶ月学校をお休み。
私たちは、1組から4組に振り分けられた。私は3組になった。
机もなにもない5組の教室に中休みや昼休みにみんな集まってきた。
みんな5組が大好きだった。
みんなS先生が大好きだった。
私たちは、より一層結束力が強くなり、六年生になった。
S先生の指導で生活ノートという日記やスケジュールみたいなものを一人ずつ毎日書いていたなあ。
とにかく書くことばかりだった。
ノートの表紙は白い厚紙で、みな好きな絵を描いていた。
私はスミレの花を描いていた。
私はスミレのような人になりたいと思っていた(50年経っても変わらない(笑))
考えてみると、S先生から受けた影響は大きい。毎日すごい量の本を読んでいるうちに読書が好きになった。
毎日感想文も書いていたので、書くことも億劫にならない。
こうしてnoteを書くのが苦にならないのも、S先生のおかげかもしれない。
小学5年、6年の頃って、自分の人生の基礎になっているのかもしれないわね。ほんとにS先生に感謝。
男の子と女の子、みんな優しかったなあ。ソフトボールの時は、私がバッターボックスに立つとわざとバットにボールを当ててくれた。
女の子たちと、アタックナンバーワンごっこ(サインはVごっこかも。とにかくコーチ役の女の子にしごかれる役でした)をしたり、学校の帰りに知らない道を探検したりしたわ。
「まりりんは、ぼんやりしてるから、一度名前を呼んでも気がつかないよね~」なんて言われてた。
折り紙つきのぼんやりだわね。
来週、はっちに会える。
「犬が三時間しか留守番できないの」と言ったら、うちの近くまで来てくれるって。
はっち、ほんとにありがとう。
はっちは去年、大切なご主人を亡くされたらしいの。ゆっくりその話も聞きたい。
小学生だった私たちが、恋をして結婚して、子供ができて、孫ができて、、
はっち、、50年分いっぱいお喋りしましょうね。。(はっちは、ミツバチハッチのように小柄で可愛いのです)