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便利な社会が"不幸"を可視化する

モスバーガーで感じた貧困

クーポンをもらったので、久しぶりにモスバーガーを食べに行った。
行ってメニューを見て驚いたが、かなり高い。

僕はモスのスパイシーチリドックが好きでいつも頼むのだが、セットで頼むと1000円近くする。
心なしかポテトの量も減った気がするし、ドリンクは氷でかさ増しされているように感じる。

という僕の貧乏臭い考えはさておき、
レジで会計中、隣になんだかみすぼらしいおばさんが立っているのに気づいた。

ランニング用のジャージのようなものを来ているが、見た目は明らかに不健康そうにやつれていて、明るく染めているにも関わらず傷んだ髪の毛がいかにも生活の困窮具合を物語っていた。

それでいて手には、ピクニックに持っていくような手提げの弁当袋のような小さなバッグを持っている。

「ウーバーです」

か細い、覇気のない声でそう言って、配達の商品をその弁当袋に入れていた。

申し訳ないが、僕がウーバーを頼んだらこの人に配達してほしくないなと思った。
手提げ袋では商品を安全に運べないし、その女性に清潔感がない。

後から気になって調べたところ、ウーバーの配達員が持っているデカい四角いリュックは4,000円で購入しなければいけないらしい。
※昔はデポジット制で、解約時に返金されていた。

だろうなとは思ったが、彼女はその4,000円の初期投資すらもケチらなければいけないほど困窮しているのだろう。

可視化された貧困

この女性はお金に困っているからウーバーイーツで働いている。
そう思うのが自然だ。

だが、見方を変えれば、ウーバーイーツがこの貧困を露わにしたとも言い換えられる。

実はそういう人たち、つまりウーバーのバッグすら買えないほど困窮する人たちは昔からいた。

僕は幼少期、母親と2人で暮らしていて、その母がお金に困っていたのを間近で見ていた。
仕事を掛け持ちし、その上で僕の世話。
僕が熱を出しているけど帰れない日があって、隣の家のおばさんがご飯を作りに来ていたことを覚えている。

小学校・中学校のときは所得制限のある団地の地域に住んでいた。
団地に住む子供はお金に意地汚い傾向があることを感じ取っていた。
特によく遊んでいたとある友達の家もシングルマザーだったのだが、その友達はよく僕の家からおもちゃやカードを盗んでいた。
その背景には当然、貧困という問題がある。

シングルマザーは子育てをしながら仕事をしなければならず、その両立の難しさからどちらも中途半端になり、稼ぎたいのに稼げず貧困の坂を下っていくケースが多いと聞く。

おそらくモスバーガーで見た配達員もシングルマザーなのだろう。

一昔前、それこそ僕の幼少期の時代なら、そのような貧困を解決するためには警備員やコンビニなどの夜もできる仕事をかけ持ちしてなんとか生活の足しにするしか選択肢はなかった。

しかし今は、ウーバーイーツやクラウドワークスなど、スポット的に働く選択肢が増えている。
時間に縛られない稼ぎの手段があるのは、特に子育てしながら働かなければいけない人たちにとっていいことのように思える。

しかしその一方で、僕たちみたいな他人に、その貧困の現実を晒してしまう機会が増えた。
貧困が可視化されたとも言い換えられる。

便利な世の中は幸せなのか?

それでも働き手にとっては、お金を稼ぐ手段が多様化し、自分のライフスタイルに適した働き方が選びやすいのは、よい社会なのかもしれない。
ウーバーイーツによって貧困から抜け出せるときが来るのかもしれない。

僕もIT系で起業している身として、テクノロジーの活用が生活を豊かにして幸福度を上げると信じたい。

しかし、現実としてそのような不幸が可視化された社会は、本当によい社会に向かっているといえるのだろうか?

例えばウーバーの配達員を「負け組ランドセル」と呼ぶ子どもがいるらしい。
気にしなければいい、と言うのは簡単だが、そんな惨めな言われ方をして、精神的に幸せな状態を保つのは困難だろう。
人はそんなに強くないし、貧困者は特に心の余裕がない。

ウーバーは貧困を可視化し、副次的に不幸を助長してしまっている。

金銭的にも豊かにはならない

社会の進歩によって働く選択肢が増え、目先の支払い問題は解決するのかもしれない。
しかし一方で、社会の進歩と共に求められる生活水準も上がっていく。

例えばiphoneは、最初に出たモデルと今のモデルの値段を比較すると4倍になっている。
ここ十数年で、生活必需品の価格が4倍になるとはなんと恐ろしいことか。
ちなみにモスバーガーの値上げは精々300円程度だ。

子供のおもちゃやゲームも高い。僕が子供の頃に遊んだニンテンドー64は発売時価格2万円台だったが、今の子供が遊ぶNintendo Switchは5万円程度。
プレイステーションにいたっては7万を超える。

サラリーマンの平均給与は上がっていないのに、僕ら世代は自分が買ってもらったものの倍以上のものを子供に買い与えなければいけないのは苦しい。

つまり技術が貧困者にチャンスを与えたとしても、同時に生活の豊かさが加速度的に上がっていくのでは、焼け石に水。
便利な世の中は貧困者を救うどころか、より苦しくしているのではないか?

間違いなく稼ぎやすくはなった。
しかし同時に、可視化された貧困によって心の豊かさはどんどん失われていく。

テクノロジーは不幸な人を減らせるのか?

ここまでの話だと、テクノロジーによる社会の変化は、豊かな人がより豊かになるためのものであり、貧困者を救えないという話になる。

僕はITに関わる身として、そうではないと信じたい。

便利な技術は毒にも薬にもなりうる。

ただそれだけの話であり、溢れる情報の中から自分に合うものを見つけ、テクノロジーをうまく利用することができれば、誰でも貧困を脱することができる。

そんなチャンスをたくさん作れる企業を僕は目指している。

おわり。

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