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DETA 0249 : 決して、キレイになれない。

天才の閃きに勝る神なし。はい、遂に限界点を定める時が来ました。まったくの白紙の状態から感動的なエンディングまで、もう既にぼくの頭の中にイメージできていたのか。

本日のnoteは、魂の宿らない世捨て人のお手本に数えられるのでしょう。

おそらく、ぼくの最も叶えたい願いは以下の通りです。


「キレイになりたい」


まるで、生涯永遠のテーマのような響きがするとはいえ、実に空しい記号であった。

いったい、どういうわけか、自分の容姿に自信のある人は実に少ないイメージだ。

なぜかしら、見た目よりも心のキレイさを磨いている人に巡り会うこともそうでした。

「なぜにぼくは時として自虐的になりたがるのか」

そういえば、死にたいというか自ら命を絶つ時ですら、キレイに死にたがる方たちだっていますね。

実に浅ましい感じ方のひとつだ。かつての某作家の斬首自決のようにね。

彼はニーチェの思想を崇拝していたようだが、その当人自身、隠れサタニストであった以上、誠実さの欠片のない結末を迎えただけのことだった。

いちどきとして、信念を曲げないことは尊い要素に数えられます。しかしながら、それと同時に単に捻くれた思考であるという視点が致命的に欠けている。

かつて、公衆の面前で投身自殺した僧侶の最期にしてもそうだ。いくら、畏怖を与える行為に徹したとしても、或る人からすれば、「単なる人間バーベキュー」と揶揄されるようにね。


ぼくは逃避行してた頃は不潔極まりなかったが、今では神経質なくらい清潔感を重要視している。

なぜかって、ただの人間嫌いになんかなりたくないからだ。

キレイな眼の色、不自然なくらいに真っ白な歯、いっさいのシミひとつない透明感のある素顔に憧れます。

ただ、見た目というよりか、せめてもの財産として欲しいだけのことか。

そもそも、ぼくの心は純真なんかじゃなくて、ただ単に言葉の使い方でそう思えるだけです。

「決して、キレイになれない」

あくまでも、未来形で示せば、まだしも希望がもてるに違いありません。

愛されたいがために己を偽ることが罪と解されない以上、ぼくは自ら恥をかくしか未知がなくなる。

悪(の根源)とは何か?


かつてのニーチェの言う通り、「他者に恥をかかせること」にすべて集約されます。

まったくの恥知らずのくせして、最もらしい神の閃きとして、現世の財産かのように君臨するサタニストたちに操られるくらいなら、さっさと死んだ方がマシだろうな。

例えば、ひとつの陰謀すらも精査できないのは神の息を吸い込んでいないからなんです。

「新人類の仲間入りがしたい」


たったひとつの方法がある。今までの生活をリセットして、現世の流れに一切囚われず、神と共に生きる者だけの特権だ。

きっと、来世なんかありもしないし、生まれ変わりなんて思想ですら恥ずかしいヴァーチャル思考の真髄だ。

逆に残酷な感じ方で申し訳ないけどさ、

何ひとつ理想を叶えることのないまま死んでいく人もいたのに。

「ぼくは醜い悪魔の子」

罪のない人たちを殺めたヤツらは、ほぼ大抵が薄ら阿呆なんだけど、動機自体が何であれ、不特定多数に刃を向ける以上は、「死よりも苦痛な刑罰」を理性的に執行して差し上げる権利があろうに。

「醜悪な中に宿る美を見よ」

ほんの分岐点のかけ違えで、その後の生涯における可能性が決められてしまうのは不幸に数えられよう。

実のところ、幸も不幸も人それぞれ質量自体違うんだから、ただ単に割り切るのかどうかだけの選択に分かれる。


「この世は理不尽であり、同時に正当な道理で成り立つ」

このような強靭なパースペクティヴを理解できる者はどれくらいいるのだろうか。

先の論理を曲解したサタニストにとっては、人の命なんてゴミ以下の価値しかありもせぬ。

そう、われわれごとき人間レベルには、愛と平和の完全性など不可能なんだ。

つまり、真の神なしで到達できると思い上がってしまう人類皆すべて、「汚れた血」に侵された悪の亡霊なのである。

換言すると、主への賛美と己の義を愛し、幸せというものが如何に借り物のヴェールであるかを思い知ればこそ、完全純度に美しい人になれます。


しかしながら、ぼくは決してキレイになれない。悪の眩惑と神の恩寵を同時に手離せない罪人だから。


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